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小沢健二、ユートピアの射程と方法論

某氏のご厚意で、小沢健二の「So kakkoii 宇宙 Shows」ファイナル、東京公演を観ることができた。

なお今回のツアーはデヴィッド・バーンの映画「アメリカン・ユートピア」を彷彿とさせるから観たほうがいいという話が界隈に渦を巻いていたので、ライブ参戦に先立って遅ればせながらこれを観てみた。そして目にした「So kakkoii 宇宙 Shows」のステージは、確かに「アメリカン・ユートピア」といくつかの共通点があった。

小沢健二とデヴィッド・バーン、それぞれ邦楽史、洋楽史上の位置づけはとてもよく似ている。いずれも齢を経た線の細いインテリミュージシャンであるところの二人がビッグ・バンドを従えるという形式にも共通点がある。また、あくまで己の実感に基づいて同時代状況に対してメッセージを投げかける、という部分にも類似性が見られるだろう。ただ、改めて「So kakkoii 宇宙 Shows」を観終わっての感想は、こと今回に関しては小沢健二の方に一日の長があるな、と感じた。

自分が「アメリカン・ユートピア」を観た時の所感として、「随分古びてしまったな」というものがあった。あの映画は元々2018年に発表されたデヴィッド・バーンのアルバムをもとに2019年の秋に公演されたショーを収録したものであり、そこに映し出されるのはコロナ禍前の、トランプ政権下のアメリカである。ところがそこから映画化まで一年、さらに日本上映まで一年、そして自分が遅ればせながら見るまでの一年の間、ご存じの通り世界は激変してしまったのである。一方小沢健二の方は、2019年の秋にアルバム「So kakkoii 宇宙」を発表し、元々は2020年にライブツアーを企図していた。ところがこれがコロナ禍で延期になってしまったものだから、その間に「泣いちゃう」のような新たな楽曲ストックも含め、ライブツアーを「コロナ禍仕様」に再編することが出来た。つまり音楽アルバムとしての「So kakkoii 宇宙」は音楽アルバムとしての「アメリカン・ユートピア」に一年遅れをとっていたはずなのだが、その遅れのおかげで2022年には「アメリカン・ユートピア」に先んじて「コロナ禍を反映したライブショー」を構築できたのだろう。この辺りはいかにも乱世らしい歴史の皮肉である。

さて、そうした内容面の話とは別に形式面の話もある。前述したとおり、線の細い老齢のデヴィッド・バーンがビッグ・バンドを従えて朗々と歌い上げる様は、「アメリカン・ユートピア」の見どころの一つである。ただ、あの映画を観終わった時点では、あの形式の批評的な意味みたいなものを自分は上手く言語化できず、いささか隔靴掻痒という部分もあった。ところが今回「So kakkoii 宇宙 Shows」の小沢健二が、同じような形式のパフォーマンスを見せてくれたことによって、しっかりと腑に落ちたのである。

アンコールの最後のMCで小沢健二は、「『音楽だけに専念してればいい』という人もいるが、自分は衣装やグッズのデザインもやりたい」ということを言っていた。「小沢健二とはアマチュアリズムの人である」と言っていた人がいたが、それは確かにそうだろう、とは自分も思う。その意味では、彼の最後のMCは「アマチュアで何が悪い」という信仰告白だったわけだが、一方で今回の「So kakkoii 宇宙 Shows」のステージは、2019年秋に見た彼のライブよりもはるかに「プロフェッショナル」だったのである。実際、あれだけの厚みのあるオケをバックにボーカルを張るには、純粋に物理的な意味でのタフネスが要求される。おそらくあれ以来ボイトレなども積んでいるのではないか、と思うほどに彼のボーカルは野太くタフなものであった。

2019年秋、小沢健二は「今はこの小編成のバンドでこじんまりとやるのが楽しい」ということを言っていた。あの時の彼は、裏も表も一貫してアマチュアリズムの人だったのである。ところが今回の彼は、重厚なプロフェッショナリズムの鎧の下からアマチュアリズムをチラ見させるスタイルに変わった。自分としてはこちらの方がいいと思う。より志が高いように思えるのだ。

一貫したアマチュアリズムというのは、その良さが粋人にしかわかりにくいものである以上、野暮天への啓蒙になりにくい部分がどうしても出てきてしまう。また(小沢健二がそうだというつもりはないが)実力のないアーティストもどきが何となく「それらしいもの」でごまかそうとする時のエクスキューズにもなりやすい。実際、そうしたことどもは(それは小沢健二に限らず)既に批判に晒されていて。近年のアマチュアリズムはプロフェッショナリズムと比してだいぶ分が悪いように思える。だが、やたらとプロフェッショナリズムが称揚されるというのもまた別の弊害が出てくるもので、たとえば審美眼の研磨を怠っている野暮天の傲慢さだとか、単に渡世のために行われている創作行為の薄っぺらさとかがエクスキューズされてしまうものだ。

ところで、思い返してみればこうしたアマチュアリズムとプロフェッショナリズムの間の揺れは、過去の小沢健二にもあった。他ならぬ『犬キャラ』と『LIFE』である。その意味で、かつてアマチュアリズムの権化のようであった彼のデビューシングル「天気読み」が、今回プロフェッショナルなアレンジで蘇ったのは非常に象徴的な話である。一方『LIFE』の中で「ラブリー」「愛し愛され」などのヒットチューンがセトリ落ちし、より普遍的なテーマ性を持つ「ぼくらが旅に出る理由」が残ったのも興味深い。デビュー後の小沢健二は徹底したアマチュアリズムの極から、徹底したプロフェッショナリズムの極へと動いたように見えたものだが、今の小沢健二は、言わば『LIFE』の皮に『犬キャラ』の身を包み込もうとしているように見える。オザケン新規のヲタ友の一人に「失敗がいっぱい」が刺さったようなのはその証左かもしれない。それはアマチュアリズムとプロフェッショナリズムの弊害を同時に脱臼させ、彼のユートピアをより堅牢かつ柔軟なものにしていく上では、効果的な方法論ではないか、と思う。

そんなわけで、結局は「さすが小沢健二」という結論にはなってしまったが、デヴィッド・バーンではわかりにくかったことが何故小沢健二を観た時に言語化できたのかといえば、それはやはり彼の子供っぽさが彼に完璧な韜晦を許さないのではないか、という気はしている。そういえば今回の小沢健二は最後に「日常に帰ろう!」という「プロフェッショナリズムの言葉」を叫んだ時、彼のユートピアを名残惜しげに見つめていたように感じたものである。この辺り、実にわかりやすく稚気がある。やはり小沢健二はデヴィッド・バーンよりも、我ら大衆の味方であると思う次第である。

追記1

あくまで個人的な不満としては「ウルトラマン・ゼンブ」のセトリ落ちというものがある。あれが小編成向けの楽曲だということはわかってはいるのだが、だからこそ大編成になった時にどうなるのか、というのはやはり見てみたかったように思う。

ただ一方で、あれでよかったのかもな、と思う部分もある。彼の今回のツアーは彼の「ユートピア」をコロナ禍と対峙させていた点では、デヴィッド・バーンよりも先んじてはいたが、2022年2月以降の世界のさらなる激変にはまだ足を踏み入れていない。だが「ウルトラマン・ゼンブ」というのはその部分に対しても十分な射程圏を備えた楽曲であり、ヒーローが真の力を発揮するのはもう少し追い込まれてから、という気もしているのである。

追記2

今回の小沢健二の最後のMCは、「経営者目線のバカ」に対するカウンターパンチなのだろうと思う。

今日、アマチュアリズムの旗色が悪いのは、世に「経営者目線のバカ」が猖獗しているからなのだが、一方で「奴らの言うことなど意に介さず、各々のアマチュアリズムを貫こう」と居直ってしまうと色々まずい。それは「経営者目線のバカ」をさらに勢いづかせ、文化を痩せ細らせるような言説をますます拡散させてしまう。

かと言ってその軍門に屈してプロフェッショナリズムに徹してしまっても同じ帰結に至るわけで、やはり重要なのは「聖徳寺の信長」スタイルだろう。アマチュアリズムをチラ見せしながら要所はプロフェッショナリズムで締める。あるいはまず相手の論理に則って相手を圧倒し、しかる後に相手の論理に屈服していない様を存分に見せつけるという順番を示していくと、敵はぐうの音も出なくなることが多い。

しかしこのやり方は一見敵の論理に屈服しているように見えるため、反対サイドにいる「前衛気取りのバカ」を敵に回すことにもなりかねない。今思えば二年前に小沢健二が(主に彼より「左側」で)BLMの件で炎上した時は、割とそういう感じだったように思えるのである(後掲記事参照)。その意味では「アメリカン・ユートピア」の方が「そっち側の人たち」向けには「優しい」出来になっているのだと思う。

追記3

今まで書いてきた「プロフェッショナリズムとアマチュアリズムの混淆」という話は、少し前に観に行ったChim↑Pomにも感じたものであった。

ただ、彼らの場合だと小沢健二とベクトルが逆で、小沢健二が軸足を商業音楽に置きながらパブリックアート的な振る舞いをチラ見せするのに対し、Chim↑Pomはパブリックアートに軸足を置きながらコマーシャルなセンスを垣間見せる。そしてその両者が「東京の地図」にこだわったプレゼンテーションを見せていたのも、何かの偶然ではないように思える。

「地図」という話では、自分が一週間前に「あひる社」の立地について呟いたツイートが想像以上の反響を呼んでいてどういうことなのかと思ったら、ステージ上の小沢健二が「新宿御苑に湧き出た古川が…」という話を始めておったまげた、ということも今回はあった。ここで一つ補足したいことがあるとすれば、新宿御苑の湧水には大した勢いはなく、古川(渋谷川)の水量はあひる社のあたりにあった玉川上水の四谷水門から流れ落ちる水によって支えられていた、ということである。つまり東京という街ははるか羽村あたりから旅をしてきた多摩川の水量に支えられていたわけで、富士山の北に広がる関東山地から放散される龍脈が形作ったものなのである。この辺り、もう少し地図の縮尺を大きくして物語を構想した方がいいだろうな、ということは常々思っていたことなので、8月13日公開の自分の新作小説をお待ちいただければ幸いである。これまた「ユートピア」にまつわるお話なので。

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