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小沢健二は田島カンナが嫌い

さて、このnoteは原則アンジュルム周りの話限定なのだが、小沢健二がらみの炎上が非常に興味深く、かつ、わざわざそのためにnoteをもう一つ立ち上げるのも莫迦莫迦しいので、今日は「浅生楽」名義で、いたって手短に自分が考えたことだけをつらつらと述べていければ幸いである。

あと、「小沢健二絡みの炎上」というのが一体どういう経緯のものなのか、どのような人がどのような形で炎上しているのかについては、以下の記事が網羅しているので、文脈を把握し切れていない人がいれば読んでいただければと思う。

で、結論から言うと、私は何故彼の発言がここまで炎上しているのかがわからない。いや、多少「議論を呼ぶ」であろうとは予測したが、何故この浅沼という人に「冒涜」とまで言わしめるのかがよくわからない。

私の解釈では、まず小沢はBLMに「トローリング」の意図があったとは考えていない。そして「トローリング」という言葉を、あくまで「いい意味」として用い、結果的にそのことがBLM運動に成果をもたらしたことを言祝いでいるようにしか思えない。無論、その際のタームの用い方に軽率さはあるのだろうし、その点に関しては耳を傾ける価値はあると思う(その辺りは後述する)。ただ、何故ここまで小沢の(BLMを心から応援するという)根本的な善意を信じられないのかがよくわからない。逆に言えば、そこまで善意を信じてもらえないことの方が、小沢に対する冒涜のようにしか思えないのである(念のために言うが、私は小沢健二の熱烈な観察者に過ぎず、彼の熱烈なファンではない。ので、小沢が冒涜されることで私が冒涜されたように感じる類の、自他境界のマヌケな決壊を起こしているわけではない。あくまで他人事として、これはちょっとひどい話だなあ、と思うのである)。

ただ、「よくわからない」とは言いつつ、その背景にある心理機制を分析することは可能である(ご存知の通り、私はそういうことをよくやる人である)。ただ、そうなると話は心理学の圏域に入ってくる。実際、ここまでの人間不信は心理療法が取り扱うべき主題であり、彼ら彼女らは皮肉ではなく「クライアント枠」で捉えた方が良い人々なのだと思う。無論それは彼ら彼女らの責任ではなく、時代がもたらした病ではある。ただ、彼ら彼女らが己が「クライアント枠」であることを自覚し、そのことに向き合わない限りは、時代の病そのものも決して克服されるものではないであろう。そして、私は「クライアント枠」の人と議論をしても無駄だと思っているので、小沢の発言が「冒涜」か否かという話はザクッと割愛させていただく。

で、それとは別に、小沢によるタームの使い方がいささか軽佻浮薄であることは確かにそうなのだと思う。その点に関しては今回浅沼氏が行なっているようなコンスタティヴ(事実確認的)な検証作業というのは大いに意味のあるものだと思う。小沢健二は高学歴な上に国際経験も豊富なので誤解されやすいが、基本的にはコンスタティヴな知識人ではなく、パフォーマティヴ(行為遂行的)なパフォーマーである。これはどちらがより多くの知識を持っているかということではなく、知的規範と美的規範のどちらに重点を置いているかという点の違いである。博学な河原芸人というのは存在しうるが、それは美的規範のためなら容赦無く知的規範を犠牲にしうる生き様であると言って良い。コンスタティヴな人(知識人、ジャーナリスト)の公共的な役割とは、パフォーマティヴな人に「ツッコミ」を入れるということであり、その意味では浅沼氏以下諸々のコンスタティヴな人々は、今回しっかりと公共的な役割を果たしていることは評価されなければならないだろう。

しかし、浅沼氏が主張するように、「パフォーマティヴな人は公共空間に関わらないでほしい」という話になってくると、さすがに行き過ぎとしか言いようがない。「公共空間」という言葉をハーバーマスに則って18世紀欧州の絶対王政期まで遡った場合、そこで流布されていた出版物はパフォーマティヴな詩人たちの投稿で溢れかえっていたし、マリー・アントワネットの首飾り事件を揶揄するような人形劇の類の「パフォーマンス」も、立派に「公共空間」の一景をなすものであったはずだ。つまりハーバーマスに「パフォーマティヴな人は公共空間から排除されるべきですか?」と聞いた場合には、必ずや「Nein(否)」という答えが返ってくるはずなのである。

それに先ほど述べた通り、コンスタティヴな人の堅実な言説の存在意義は、パフォーマティヴな人の軽佻浮薄な言説によって生まれると言っても過言ではない。また、一般大衆への動員力という点では、コンスタティヴな人はパフォーマティヴな人には絶対にかなわない。たとえば自分の研究者としての専門領域は欧州の近世・近代史であるが、この領域に興味を持つ最初のきっかけが二宮宏之氏の「フランス絶対王政の統治構造」だという人はまずいなくて、やはり池田理代子氏の『ベルサイユのばら』の方が圧倒的に多いのではないか。だが研究者の方としては、池田氏がいかに事実に反した形で物語を展開していたとしても、これだけ多くの研究者の卵を連れてきてくれただけで御の字なのである。なので、たとえば「ベルばら好きなんです!」という人に対して、「あれはハプスブルク家の描き方が間違っている!」みたいに怒りを露わにしてしまうのは、その人に折角生まれた興味関心を摘んでしまうことに繋がりかねない、というのが私の感覚である。普通に「池田さんはああ描いてきたけど、実はね...」と語り始めればよいだけの話ではないか(こういうことを書くとあたかも「トーンポリシング」のようであるが、「トーンポリシング」の問題点とは、明らかに正しいことと間違っていることを比較しなければならない時に語り口の「トーン」を問題にしてすり替えることなのであって、どのみち正しいこと同士を比較する時には大いに「トーン」を問題にすべきである、と私は思う)。

もう一つ、「パフォーマーとは言っても、ツイッターのような空間ではもっとコンスタティヴに振舞うべきである」という意見もある。確かに欧米などでは、パフォーマーはよりコンスタティヴに己の見解を表明する。ところが日本でそういうことをすると「●●さんがそんな政治的なことを言う人とは思いませんでした!」みたいな愚見があっという間に飛んでくる。そのこと自体は由々しきことだと思うが、実際そういう土壌がある以上、それなりに伝えたい政治的見解を持ったパフォーマーがパフォーマティヴに振る舞わざるを得ないことは理解できる。また、そもそも現在のツイッター空間は(震災直前くらいまではそうでもなかったのだが)コンスタティヴな営為に向いているのか?という問題もある。自分なども、今やツイッターはほとんどパフォーマティヴにしか使っていない。そしてコンスタティヴなことを書く場合には、このようにnoteのようなメディアの方が適しているのではないか、という気がしている。じゃあ小沢健二もツイッターでなくnoteを使ってコンスタティヴに振る舞え!みたいな声も出てきそうだが、それをやったら小沢ではないという気もしている。むしろあれは所詮やたら博学な「河原芸人」として突き放した形で公共空間の周縁に置いておくくらいの距離感を持っておいた方がよい気がするし、小沢自身も、実はそれを望んでいるのではないか、という気もするのである(その件に関しては多分最後に書く)。

「コンスタティヴ-パフォーマティヴ」ということであれば、今回小沢が重視したのは「BLM」という言説の「パフォーマンス」であるという点も「パフォーマーらしい」話ではあると思う。しかし、その点に関しては、自分は小沢の見解に対して異論を唱えたい。私が思うところ、「BLM」という言説の「パフォーマンス」は、小沢が言うほど効果的なものではなかった。つまり、ネトウヨから「BLMじゃなくてALMだろ?」という「ツッコミ」を引き出せたからどうなのだ?という話なのである。そのうっかり口走った自己矛盾に彼らが頭を抱えるとは思えない。彼らはそれほどまでに非論理的であり、絶望的なまでに厚顔無恥なのである(より厳密に言えば、あまりにも自己肯定感が低い割にプライドだけが肥大しているため、厚顔無恥にしか振る舞うことができないのである)。ゆえに彼が「ALMだろ?」というツッコミは、彼らに「言ってやったぜ!」という偽りの達成感と連帯感を与えるだけに終わるであろう(実際今回の小沢の炎上も、全て小沢より「左」で起きている。小沢より「右」の人々は、今回のようなイシューで炎上するには、あまりにも教養が足りないのである)。もし彼らを本当に「トローリング」したいのであれば、今回小沢が述べたような手口は手緩すぎる。もっと彼らを孤立させ、達成感を与えないような方法をとる必要があるのだと思うが、その話をし始める本論の論旨からどんどんズレていくので、やはりこれもザックリ割愛する。

それともう一つ、小沢健二がここのところ執拗に論じている「レイシズム=人種主義≠人種差別」という問題系に関して。これはこちらの華人社会史の研究者の方が論じているので読んでいただければと思う。私も欧州史の方で似たような問題系に漸近してはいるので、小沢の言っていることは「まあ、そうだよね」という感じで横目で眺めてはいた。いわゆるナショナリズム論における「構築主義」の話だと考えればよいだろう。

ちなみに構築主義的視座というのは、「既に存在する差異に基づいて差別が行われる」のではなく「差別を行うためにそれまで存在しなかった差異が社会的に構築される」という話なので、「差別」というものをよりラディカルに捉えることができるものである。またこの視座に基づけば、所詮は対岸の家事に過ぎなかった「BLM」と言った話も、たとえば「学校生活の中で差別を行うために『インキャ』という概念が作り出される」といった形で、「差別」という問題系をより身近なものとして感じてもらうためのフックになりうるものだと思う。だが同時に構築主義的言説は、発話者の善意の有無によっては、「既に存在するかに見える差異」を「所詮構築されたもの」として片付けてしまうことで、差別の存在自体を無効化してしまう形で用いられるリスクもある(おそらく小沢の構築主義的物言いに反感を抱いている人々は、そのリスクを危惧しているのではないか、という気がする)。たとえば近年盛んに提示されている「発達障害」の概念というのは、今までは「KYな人」「不注意な人」として差別されていたような人々を医学的にサルベージするために新たに構築された概念とも言える。これに対し「そんなものは社会的構築物に過ぎない」と指摘することが、ASD差別、ADHD差別の再燃に繋がることが容易に想像ができるだろう。しかし「悪用」されるからといって構築主義的視座そのものを否定するのはあまりに早計に過ぎる。要は「悪用」する者を個別撃破で指弾していけばいいだけの話であり、構築主義的視座そのものは人間に新たな「自由」を与えるという点で、近代人文主義的価値に新たな一ページを加えたと言うこともできるし、東洋仏教圏では空海が「六塵悉く文字なり」という形で、既に古代末期の段階で到達した伝統ある境地でもあるのだ。

「伝統的」という意味では、小沢が構築主義的視座を強調している点は(構築主義的ナショナリズム論自体はニューレフトの産物であるにも関わらず)、小沢の「保守性」を体現しているものだと思う。小沢健二のメッセージ性は『犬キャラ』の時から実は一貫して変わっておらず、近代的な構築物に過ぎない「六塵(国家、国民、人種、経済システムなど)」から降り、個人の「生活(LIFE)」を重視するという「個」への無限分解的なベクトルと、その「個」の「生命(LIFE)」をエンパワーする「(空海の言葉を借りるなら)五大(宇宙、神様、歴史など)」への無限大指向的なベクトルが共存する。これは前者だけを見れば「左派的」であり、後者だけを見れば「右派的」なのだが、いわゆる我々が想定する「右派」である近代主義的ナショナリストとは異なる「保守」であると考えればわかりやすいと思う。たとえば「保守主義の父」と呼ばれる英国の思想家エドマンド・バークは、マグナ・カルタ以来英国が遵守してきた法的伝統に法りながら中央集権的な「王党派(ロイヤリスト)」に対峙する「愛国派(パトリオット)」であり、アメリカの独立革命をも支持するような分権的、無限分解的な多元主義者であった。自分自身は専門柄小沢の思想性をバークに重ねることで既に読み解いてしまっていること、また別に小沢に言われなくとも「六塵」から降り、「五大」に身を投ずるようなことを勝手にやれてしまう人間であることから、小沢に対する熱狂性が低いのかもしれない。しかし、私よりももっと「六塵」にビルトインされてしまっている真面目な人々が、「良き保守主義」の要諦に触れるための媒体として、小沢健二の存在をとても有り難く感じているところがある。小沢健二のおかげで自分と話が合う人々が増えるのは、とても嬉しいことだからである。

ただ、とは言え、やはり熱狂的な「信者」ではないからか、小沢の物言いそのものには「イラッ」とすることは少なくない。たとえば今回の「でも本当はちょっとのヒントでみんな自分でわかると、僕は僕の言葉に興味を持つ人を信用している」。こういう物言いが「イラッ」と来る。では、何故「イラッ」と来るのか? おそらく、ファンのスノビズムをくすぐっているように見えるからだろう。「そうだ。自分は彼の言うことをわかっている。わからないやつの方がダメだ」ーこういう思考回路に陥ってしまった「信者」ほど痛々しいものはない。もし小沢健二がそういう「信者」を作ろうとしてああいう物言いをしているとすれば(精神力動学的には、これはとても効果的な方法である)、私は彼を心底軽蔑する。「みんな自分でわかる」というのは、何を「わかる」というのか? 「信用している」というのは何を「信用している」というのか? 彼は例によっていつものごとく、それを明言していない。もしそれが「自分の言っていることがわかる」「自分の言っていることを理解してくれると信用している」という意味であれば、私は彼を軽蔑する。

だが、そういうことではないのではないか、という気がするのである。

彼が「わかって」ほしいのは、皆を「信用している」というのは、「自分はあくまで善意に基づいている」ということなのではないだろうか。

自分の言うことは理解できなくてもいい。むしろ自分の言うことを聞くのではなく、自分の頭で考えてほしい。ただし、自分が善意に基づいていることだけはわかってほしいーそのメッセージを伝えたいがために、彼はあそこまであからさまにイラっとさせる物言いをするのではないか。「お前の言うことなんてわかんねえよ。自分で考えさせてもらうわ」ーまさにその一言を、我々から引き出すために。その意味では、へらへらとした偽悪に満ちた彼の態度もまた、彼の善意に対する我々の信頼を自発的な形で引き出すための反語的働きかけなのではないか。

私の知る限りの小沢健二は、岡崎京子が『リバーズ・エッジ』において小沢の熱狂的ファンとして描いた田島カンナを「一番嫌いなタイプの女」とこき下ろすような男である。「自分の言うことを何でも理解してくれる」ような「信者」などは、彼が最も嫌う存在のはずである。だからこそ、彼の物言いには素直にムカついた方がいい。所詮は河原芸人に過ぎない彼の言うことなどは真に受けず、コンスタティヴな人々の指摘にも素直に耳を傾けた方がいいし、彼の言うことが間違いだと思えば遠慮なく口に出した方がいい。だが、彼の善意だけは絶対に信じた方がいい。だが、彼の善意を疑う冒涜の声が聞こえたとしても、それは時代の病に冒された人々が集う診療室に鳴り響く「それ」として腹を立てず、「大目にみる」必要があると思う。ここで寛容さを捨て、無闇に「だからリベラルはダメだ」みたいな気分になってしまえば、その反対側の闇に蠢くトロールどもの思う壺だからである。

その意味では、私は小沢の物言いに潜在的な「教祖」的可能性を感じ、それに「イラっ」としながらも、同時に「信者乙www」的な冷笑こそが時代の病であることもよく知っている。というのは、己に依存することなく自らの手で「法(ダルマ)」に到れる弟子を作り出そうとする者こそが、古来名を成してきた最も偉大な「教祖」であり、その存在をも冷笑する者たちは、一見無頼を気取りながらも、思考停止のまま冷笑に依存するだけの奴隷の群れに過ぎないからだ。先ほど私が述べたいささか買い被りすぎな仮説の通り、小沢がそこまで偉大な「教祖」か否かはこの際どうでも良い。ただ彼の善意だけを信じつつ(その「信頼」の証としては、彼の音楽を聴き続けることが最も相応しい行為であろう)、彼をdisっていれば間違いはない。何故ならば、小沢がもしそこまで偉大な「教祖」だとすれば、彼の言うことなどには耳を傾けず自分の頭で考えることこそが「教義」にかなっているし、彼が偽物の教祖だとすれば、そもそもそんなものに耳を傾ける必要などないからである。













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