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8/29 歴史の終わりとNewJeansおじさんワンダーランド

さて、昨日の話の続きなのだが、若い友人から「New Jeans」ではなくスペースを空けずに「NewJeans」なのではないかというご指摘を頂いた。確かによく見るとそうなので今後はそう表記することにする。ただ、今後自分が「NewJeansの話」をすることはほとんどないだろう。自分が興味があるのはNewJeansではなく「NewJeansおじさん」の方であり、それは「感度の高い人たち」とも換言可能だからである。

「感度の高い人たち」が生まれた経緯は岡崎京子先生の『東京ガールズブラボー』などを読めばよい。たぶん起源は80年代前半である。自分の体感として覚えているのは90年代前半の渋谷系全盛の頃で、今の「NewJeansおじさん」の青春というのもおそらくあの辺りにある。80年代前半ならパンク・ニューウェーブ、90年代前半ならセカンドサマーオブラブなどと連動する。

そういえば以前Twitter上で、オアシスが同じマンチェスター出身の先輩であるストーン・ローゼスらと比べていかに「クソ」かというのを力説している人がいた。あの人も多分に「感度の高い人」なのだろう。確かに90年代半ばにオアシスが出てきた時、この人たちは「マンチェスター」の空気を纏いながら何か違うな、ということを自分も感じて、あんまりノレなかった。オアシスの登場は今思えば邦楽史では以前書いた「CTPがミスチルのジャケを担当し始めた」という画期に相当するのだろう。

90年代半ばというのは、90年代前半に二分されていた「大衆的な」メジャー邦楽と「感度の高い」マイナー邦楽の相互乗り入れが始まった時代であった。四人の歌姫が同時にデビューした98年云々というのは、この長い分水嶺から流れ出す「水源」の話である。以前も書いたが、自分はすごく軽薄な感じでこの90年代半ばの風潮を歓迎した。と同時に、90年代前半渋谷系的な「感度の高さ」を競うノリというのはもう「オワコン」なのではないかと感じていた。

なにしろすでにPUFFYとか川本真琴とか面白い曲がヒットチャートを占め始めているし、なんなら歌番組に小沢健二御大が出演してカローラとタイアップまでしている。世の中は既に「感度の高い」音楽で占められており、大仰な言い方をすれば「革命」は成功し、「歴史」は終わったのだと思ったのである。あとは小うるさいことを言わず、自分の好きな音楽を聴けばよいのではないか、という話である。

あとは単純に人間が守備範囲として対応できる情報量の問題というのもある。90年代前半にはマイナー邦楽に絞って「感度の高さ」を競っていればよかったものが(ZARDやB'zをめぐる音楽批評なんてものは存在しなかった)、同じことを音楽界全体を対象にやり始めたらえらいことになる。それに世の中にはもっと面白いことが山のようにあるわけで、知的リソースの割き方としてあまり偏ったことはしたくなかった。

既にオザケン御大も「もう間違いが無いことや、もう隙を見せないやりとりには嫌気がさしちまった」と歌っていた。自分は割と箴言を字義通りに受け止めてその通りに行動し始めるところがあって、「NewJeansだろうがNew Jeansだろうが割とどうでもよろしい」という今の自分の構えはこの辺の時代体験にルーツがある。そういった瑣末なことにこだわる人たちが急に「ダサく」見えた瞬間というのがあって、その感覚というのは今も続いているわけだ。

ところが驚いたことに、その後も感度の高い人たちはいなくならなかった。そういう人たちはものすごく頑張って宇多田ヒカルと小沢健二を同時に音楽批評したりしている。自分のような鈍感人からすれば「蛮勇」としか言いようのない感度の高さだ。さらに感度の高い人はNewJeansの洗練性を早くから指摘してそれを誇らしげに自慢したりしている。僕の部屋にも届く。

では何故「感度の高い」人たちは「歴史の終わり」後もいなくならず、生き残ったのか。それを予見できるには若い頃の自分は鈍感すぎた。今の自分よりも瑣末なことに対しては敏感だったが(NewJeansをNew Jeansと書いたりはしなかった)、その代わりに人間の心理機制とか人の世の動き方とかいった、もっと大事なことに対して鈍感だったのである。

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