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『証言モーヲタ』から考える-アンジュルムはどこから来てどこへ行くのか

最近、Twitterの方でも呟いていますが、『証言モーヲタ~彼らが熱く狂っていた時代~』が大変興味深く、思わず二度読みしてしまいました。

私自身はモーニング娘。の黄金時代をリアルタイムで経験しているのですが、ハマることはなく、かといって毛嫌いorガン無視を決め込むこともなく、ある種の好奇心とリスペクトを持って遠巻きに眺めていた感じの人でありました。そして、当時の自分の娘。に対する距離感の、この「微妙な感じ」が何故だったのか、完璧に言語化することが今まで出来なかったのです。おそらく娘。という現象には、自分が非常に共感できる部分と、「これは違うな」と思う部分が同居していたからなのですが、その両者が何者だったのか、ということが、今回この本を読むことで物凄く腑に落ちた感覚があります。

そしてもう一つ、私がこの本を読んで真っ先に思ったのはアンジュルムのことでした。今のアンジュルム周りの現象は、黄金期の娘。周りの現象に見られた一側面を継承しつつ、別の側面においては異なった形へと変化しつつあるのではないか、という気がしたのです。そしておそらくアンジュルムヲタである自分は、アンジュルムが継承した側面については共感を覚えつつ、継承しなかった側面については違和感を覚えていたのではないか。

さて、この点を掘り下げるために自分が思い立ったのは、娘。が登場した90年代邦楽の文脈を改めて見直してみるということでありました。「90年代」というテーマは、今夏かなり悪い意味でバズったこともあり、自分も改めて関連書籍を読んだり記事を書いたりしたものですが、今回の『証言モーヲタ』にも、昨今の90年代サブカル論で論じられた問題系というものがいくつか現れてきています。その意味で「モーヲタ」という現象は90年代サブカルと同根の文脈から生じたものであり、その文脈を改めて検証することは、「アンジュルムの未来」について考える上でも意味のあることではないか、と直感したのです。そのために自分がまず思考の補助線としたのが、『証言モーヲタ』に収録された宇多丸さんの以下のコメントでありました。

ちょうどモーニングが盛り上がってきたのと日本語でDJしたい、あとモーニングだけじゃなくて日本のポップシーン全体がめちゃくちゃおもしろくなってた時期、つまり80年代半ばからのクラブミュージック的な、いままでの歌謡曲になかった要素の流入がうまく昇華されたのが90年代末から00年代頭で、とにかくJ─POPがめちゃめちゃおもしろい時代だった。        吉田豪. 証言モーヲタ ~彼らが熱く狂っていた時代~ (Japanese Edition) (Kindle の位置No.5817-5820). Kindle 版. 

この宇多丸さんの「J-POPがめちゃめちゃおもしろい時代だった」という感覚も、自分も同時代を生きていてその記憶があります。ただし、とりわけ「クラブミュージック」ということに限定しなければ、「おもしろく」なってきた時期はもう少し遡ると思います。自分の体感としては1994年、Mr. Childrenの「Innocent World」が、コンテンポラリー・プロダクションのデザインで発売された頃が一つの画期です。

それ以前、90年代初頭の邦楽シーンというのは、ドラマ主題歌起用やCMタイアップを持つ米米CLUB、ドリカム、チャゲアス、ビーイング系などのメジャー邦楽と、いわゆる渋谷系に代表される通好みのマイナー邦楽に二分された状況でした。前者のリスナーが後者に食指を伸ばすことはなかったし、後者のリスナーは前者をバカにしながらマニアックな嗜好を強めていった。そしてコンテンポラリー・プロダクションは、後者の渋谷系音楽のジャケットを数多く手がけていたデザイン集団でした。その彼らが、明らかにメジャー邦楽の文脈で売り出されていたミスチルのジャケットを手がけるというのは、当時「マイナー」側で10代を過ごしていた自分にとっては、明らかな「事件」だったのです。

しかし、変化の兆候はミスチルに限りませんでした。いわゆる渋谷系のミュージシャンたちも、ピチカート・ファイヴ『ボサ・ノヴァ2001』、小沢健二『LIFE』という具合に陸続とメジャー傾斜していく。そしてメジャー側からも、小室哲哉が己のプログレ的音楽性を開花されたglobe(1995)、奥田民生が60-70年代テイストをふんだんに盛り込んだPUFFY(1996)などの女性ボーカルユニットが続き、やがて川本真琴(1996)、椎名林檎(1998)といった、意識的にメジャーとマイナーを交錯させるような音作りをする女性SSWも現れます。その中で自ら制作を行わないタイプの女性シンガーは、SPEED(1996)のように圧倒的なパフォーマンス力を見せつける必要がでてきた。つまりモー娘。登場直前の⑴メジャー側とマイナー側の両方から相互乗り入れが進み、⑵その上で実力派の女性シンガーが躍動するという状況が生まれていたということになります。

さて、こうしたメジャーとマイナーの相互乗り入れに伴う邦楽シーンの活性化、洗練に対して差別化をはかる形で、マイナーシーンの一部はさらなる先鋭化へと傾斜します。一方では90年代サブカルとも縁の深いデス渋谷系(暴力温泉芸者、バッファロー・ドーター)、また一方ではヒップホップシーンの基調は、近田春夫からスチャダラパーに至るニューウェーヴ的知性から、キングギドラに代表されるストリートの戦闘性満載のエッジ感へとモードチェンジしていく。そして、今回の『証言モーヲタ』の一方のメインスピーカーとして機能していた掟ポルシェさんのロマンポルシェ。は前者の文脈に連なるユニットであり、もう一方の宇多丸さんのライムスターが後者の流れで登場したグループであることは注目に値します。

ちなみに別記事でも書いた通り、当時10代を終えようとしていた自分は、渋谷系のサブカル的「先鋭化」に付き合うことはなく、一方では豊かさを増したメジャー邦楽を享受しつつ、もう一方では「デス渋谷系」の中でもグローバル進出したバッファロー・ドーターやチボ・マットなどを手掛かりに、90年代洋楽をdigる人になっておりました。つまりサブカル的自意識の問題には興味を失っていて(というか、おそらく最初からあまり関心がなかった)、より奥行きのあるコミュニケーションツールとなったメジャー邦楽を活用しながら、純粋に文化的エッジ感を得たいのではあれば個人的に洋楽をdigっていった方が、より「見晴らしのよい場所(©️コーネリアス「What you want」)」に立てる、と感じるようになっていたのです。

そんな自分にとって当時のヒップホップシーンは、「君たちは一体何と闘っているのか?」と思わず首を傾げたくなるものに成り果てていたのですが、それでも一枚だけ手にとったアルバムがインディーズ時代のライムスターによる「リスペクト」だったことは今思えば必然だったように思えます。そして一聴した印象としては、音作りと語彙の豊富さに(多分に宇多丸さん由来の)ニューウェーブ的知性を感じ、その部分には好感を覚えたのですが、それらの知性を無理くり「ストリート感」を出すために無駄遣いしている感じがして、それ以降ライムスターのアルバムを買うことはありませんでした。そして今回宇多丸さんが『証言モーヲタ』の中で、以下に彼が己のニューウェーブ的知性と当時のヒップホップシーンの中で葛藤を抱えていたかを吐露しているのを読んで、当時の自分が感じた違和感の正体というものを再確認した次第です(その後自分は、メジャーデビュー後のライムスターのアルバムを購入し、解き放たれたように肩の力の抜けたニューウェーブ的知性を炸裂させている宇多丸さんの姿を見届けることができました)。

さて、『証言モーヲタ』の中で多くの語り手が口を揃えて言っていることに、「いかに当時のモーヲタが迫害されていたか」ということがあります。そして思うにこの「迫害」には二つのパターンがある。一つは当時の世間一般に根深く残っていた「アイドル」への蔑視であり、これは前述の「メジャー側」と「マイナー側」で言えば前者に由来するものだと思います。80年代に「メジャー側」に属していたアイドルは、90年代前半にはすっかり「マイナー側」の存在になってしまっており(その象徴が東京パフォーマンスドールだったのだと思います)、その意味で90年代半ば以降の「女性シンガープロデュース」ブームとは、「メジャー」と「マイナー」の相互乗り入れ風潮の一環であった、という考え方も可能です。「メジャー」側の人々の「アイドル」的なものへの眼差しはなお根深く、自分も当時大学図書館のバイトで仲良くしていた職員の女性(バブル世代)に「パフィーいいですよ」と言ったところ、「え、やだぁ」と顔をしかめられたこともありました。

しかし、逆に言えば「アイドル」全般に対する「マイナー」側からの眼差しは別に厳しいものではなかったように思えます。たとえば石野卓球が篠原ともえをプロデュースしたように、ある種のサブカル知的遊戯のツールとして「アイドル」は既に重宝される存在であった。では、何故ロマンポルシェ。はユニット名に「。」をつけた途端に観客が減ったのか、という話なのですが、これは端的にモーニング娘。が「既に売れていた」からだと思われるのです。とりわけ当時のロマンポルシェ。が棹差す90年代サブカルの文脈は、前述の理由から先鋭化が進んでおりました。そうしたファンダムにとっては、ロマンポルシェ。のお二人がどれだけ宍戸留美を愛していようが問題はありません。何故なら彼女は「マイナー側」だからです。しかし既にミリオンセラーを出してしまった娘。は、「敵国」の人間だったのです。

ちなみに当時の自分がモーニング娘。を初めて見た時の所感は「SPEEDの下位互換」というものでした。この見方は何も私に限らず、世間一般に共有されたものだったような気がします。そして、そもそも初代娘。というものが、いわば「SPEEDになれなかった系女子」をかき集めた企画ものなのであり、これは企画ものとして一定の盛り上がりを見せた後、やがて消えていく存在なのだろうな、と自分は思っていました。

実際よく知られている通り、「抱いてHOLD ON ME!」(1997)を一つの山として、「ふるさと」(1999)の段階では娘。の売り上げはかなり落ち込んでおりました。よく「つんく♂曲の遅効性」ということが話題になりますが、逆に言えばつんく♂という人は(特に「真面目な」楽曲を創った場合には)作家としてあまり「華」のない人だと自分は思っています。たとえば小室哲哉のように「メジャー側」を一発で仕留めるパンチラインを用意することもないし、椎名林檎のように「新宿系」などのバズワードやリスペクトするミュージシャンの名前をチラつかせるような「マイナー側」へのあざとい目配せもない。では、この時期までにシャ乱Qが何故あそこまで売れていたのか、ということなのですが、つんく♂は作家としては「華」がないが、パフォーマーとしては「華」のある人だからではないか、というのが自分の推測です。その点では、既にSPEEDの圧倒的なパフォーマンスを見せつけられていたリスナーの目には、初期娘。メンのそれはどうしても物足りないものに映っていたわけで、「華」のない作家の楽曲を「華」のないパフォーマーが歌うのでは、どうしてもジリ貧ではないか、というのが、自分の所感だったのであります。

しかし、そこでつんく♂はトンチキ楽曲「LOVEマシーン」という起死回生の一手を打ってきました。「二枚目」では「華」がないので、「三枚目」で勝負してきたというわけです。彼がここまで「三名目」カードを切らなかったのは、シャ乱Qの三枚目楽曲が全くハネず、二枚目楽曲でハネたという成功体験があったからではないかと思うのですが、この辺りの匙加減は本当に微妙だと思います。おそらくつんく♂の作家としての「華」は、シリアス楽曲よりもトンチキ楽曲の方が発揮されやすく、娘。メンのパフォーマーとしての資質もまたそうであった。こうして「LOVEマシーン」は、90年代の最後を飾る国民的ヒット曲となった、という次第なのですが、それはそれでやはり長続きするとは自分には思えませんでした。

というのは、日本邦楽史にはこの手のトンチキ楽曲が大ヒットするタイミングというものがあって、「LOVEマシーン」の前にはB. B. クイーンズの「おどるポンポコリン」(1990)というレコード大賞受賞曲がありました。1989年の受賞曲がWink「淋しい熱帯魚」で、1991年の受賞曲が米米CLUB「君がいるだけで」であることが非常に象徴的なのですが、1989年の時点では米米のような自作自演型のミュージシャンが「マイナー側」にいて、Winkのようなアイドルデュオが「メジャー側」にいるという80年代の構図がギリギリ残っていた。ところが1991年になると自作自演型が「メジャー側」と「マイナー側」に二分され、アイドルが「マイナー側」に追いやられる件の構図が作り出されるわけで、邦楽界の構図が変わる瞬間というのはトンチキ楽曲が「徒花」として咲き乱れることが多いのです。実際、1999年という年はSPEEDの解散が予告され、既に小室哲哉の帝国にも翳りが見え始めておりました。つまり90年代半ばから後半にかけて続いた邦楽シーンの構図が変わる予兆というものが既にあって、「LOVEマシーン」の大ヒットというものも、ある種の「徒花」なのではないか、という予感を自分はうっすらと感じていたものです。

そして自分の予感が決して間違っていなかったことは、娘。の売り上げ自体はもう一つのトンチキ楽曲の最高峰「恋愛レボリューション21」(2000)を最後に下降線を辿ったことに現れています。実際、「メジャー側」リスナーの多くは「LOVEマシーン」から「恋愛レボリューション21」までを「徒花」として消費した後、娘。あるいはハロプロから離れていったと思います(もちろん、音楽業界の構造変化によってCDの売り上げ自体が落ちていった、という見方も可能ですが、松浦亜弥「桃色片想い」(2002)も売り上げを見れば同年の浜崎あゆみ「H」の1/4程度です)。しかし、当時の自分に全く予想がつかなかったのは、娘。あるいはハロプロをしてここまで持続せしめるほどの、強度と厚みを持った固定ファン層がついたことでありました。そして、それを可能にするには、一定の厚みを持った層が共有する実存形式に対し、娘。あるいはハロプロが強固にアピールするものがあった、ということなのだと思います。それが何だったのか、自分は長い間言語化することができなかったのですが、『証言モーヲタ』を読んでようやく腑に落ちた気がするのです。

非常に興味深いのは、『証言モーヲタ』に出てくる「建国の父」たちの多くは、つんく♂楽曲の「遅効性」に誘われてじわじわと引き寄せられ、本格的にハマったのは「トンチキ期」以降だったということです(彼らが口を揃えて思い出を語る「清里」は、「恋愛レボリューション21」発売の半年後)。そして杉作J太郎さんが「モーニングの応援からも一線引いていたつもりなんですよ。特に6期メンバーが入った頃から勇ましい感じの歌が若干影をひそめて、ずいぶん全体的に女性的な歌が多くなってきたんだよね。やっぱり後藤真希の卒業が大きかったんだよ」と語っているように、やはり「建国の父」たちにとっても「山」は後藤真希が所属していたトンチキ期だったのであり、その点では世間の「メジャー側」と重なります。つまり、元々は世間に「メジャー側」に対抗する「マイナー側」の、特に90年代半ば以降に先鋭化したサブカルに棹差す人々が、娘。に関してだけは世間が持て囃せば持て囃すほどハマっていったことになる。その理由にはおそらく二つあって、一つは前述の通り、娘。が二重の意味で蔑視されていたからだと思います。まず「メジャー」側からの彼女たちへの蔑視に対しては、彼女たちの側に立たねばならない、とするサブカル出身者の矜持が彼らには元々ある。だが一方で、サブカル出身者の中でも特にアクティブでハイセンスな発信者である彼らにとっては、「メジャーであれば何でもダメ」とするサブカル村の中の思考停止スノビズムも到底受け入れられるものではなかったのだと思います。そして彼らのこうした芸の細かすぎる反骨精神にとって、「トンチキ期」の娘。は格好の素材だったのではないでしょうか。敏感な彼らであれば世間が娘。を「徒花」としてしか消費していないことを当然知っていたからこそ、「徒花」を支えるつんく♂の高度な職人芸を評価することで玄人の鑑識眼を披露することが出来たし、「徒花」であっても爆発的に売れたからこそ、サブカル村のいけすかない思考停止スノビズムをキャンセルする素材にもなり得た。つまり「建国の父」が晒されていた二正面戦線において、「トンチキ期」の娘。はあまりにも理想的な武器だったのです。

そしておそらくもう一つの理由は、つんく♂のプロデュースおよび事務所マネイジメントの「安定感のなさ」です。前述の通りつんく♂は結構不器用な人で、「ハズレも出すが時々とんでもない大当たりを出す」というタイプのプロデューサーです。その意味では当時二十歳そこそこの小娘であった椎名林檎の方が余程したたかなセルフプロデュース能力があったと思うのですが、では仮につんく♂に椎名林檎並みの安定したプロデュース能力があったら、かの「建国の父」たちがあそこまでハマったのかといえば、絶対にそんなことはなかったと思います。実際、彼らはつんく♂のプロデュースワークの持つギャンブル性を理解した上でこれを楽しんでいたような記述が随所に見られますし、「いくら何でもこのジャケットはひどいだろう...」的なバッド・プロデュースに対する不満も、「俺ならこうするのに...」的な彼らの創造性をくすぐるものだったのではないでしょうか。その意味でつんく♂と事務所の「安定感のなさ」こそが、「運営が頼りない分ヲタクが頑張らねば」という形でヲタクの能動性を引き出す条件になっていたということです。

さて、こうしたアクティブでハイセンスな先達が火を灯したハロヲタという文化には、時を経るにつれて悪い面も良い面も見られるようになります。その中で悪い面に関しては何もハロヲタだから悪い、ということではなく、文化の頽落はどこでも起きる、という話です。たとえば「売れていても良いものは良い」という構えは、いとも簡単に「売れなければ意味がない」へと頽落します。そして同じように、「トンチキなようで実はしっかり作られている」は「トンチキでなければハロプロらしくない」に、「運営が頼りない分ヲタクが頑張らねば」は「運営は頼りない!けしからん!」に、あっという間に劣化してしまう。こうした、シリアスな自己研磨に対しては冷笑的な癖に現状追認的な承認欲求だけは強く、受動的で他罰的な様というのは、凡百のネット民によく見られる性質なのですが、『証言モーヲタ』でも書かれている通り、ハロヲタの文化というものは日本のネット民文化とともに発展し、良い意味でも悪い意味でもシンクロしてきたところはあったのだろうな、と思います。たとえば杉作さんが本の中で、「加護ちゃんが子供の間は応援するが、大人になった後にスキャンダルを起こしてもそれはもう本人の問題なので立ち入らない」ということを述べていましたが、「建国の父」たちは時に軽薄にすら見えるほど自由自在な知性の持ち主でありながら、その魂の置き所においては筋が通っていた。ところが凡百の輩というのは常に、知性において不自由でありながら、魂の置き所は常にぐらついているものです。その意味で「建国の父」たちの思想が平成後期のネット民的メンタリティと少なくとも表面的には相性が良かったことは、ハロヲタ文化の持続可能性に繋がったのだとは思いますが、その思想が知性と精神においてはるかに劣る層によって援用されてしまったことは、その後のハロメンに対する「呪い」にもなってしまったのではないか、ということは思います。

さて、ではハロヲタ文化の「良い面」とは何か、と言えば、それは邦楽シーンの構造変化を生き抜き、90年代の最良の部分を令和の世に継承したことに尽きると思います。というのは、娘。トンチキ期以降の邦楽シーンとは、「トライブ(族)」の島宇宙へと分裂していく過程だったからです。たとえばLDH系というものは、スクールカースト的に高いトライブへのターゲットビジネスだったわけですし、Bump of Chickenが綾波レイを歌った「アルエ」などは、逆にスクールカースト的に低いトライブへの目配せだったと言えます。そしてスクールカーストという物差しによらずとも、「こういう音楽を聴いている層はこういう層」という具合に、ネット言説を参照しながら自他のアイデンティティを確認しあい、島宇宙化していったのがゼロ年代の邦楽シーンだった。あるいは、90年代半ばに「メジャー側」と「マイナー側」が乗り入れする形で相互架橋的な邦楽シーンが現出した後、その反動として現れた90年代サブカルやヒップホップシーンにおいて、既に「島宇宙化」の象徴は現れていて、ゼロ年代とはそうしたプロト「島宇宙」が大衆化、形式化することで、90年代的な相互架橋的シーンを侵食していく過程だったのかもしれません。

その意味では、宇多丸さんの「当時のヒップホップシーンには話の合う奴がいなかった」という話は、ロマン優光さんが別の場所で語っていた「ある時期以降の90年代鬼畜系にはノレなかった」という話は、完全に呼応しているように思えます。つまり彼らは90年代の相互架橋的なシーンの異端に棹差しながらも、既に島宇宙化し始めていた異端シーンの中でも「異端」だった。彼らもまた、90年代の相互架橋精神に貫かれた人たちであり、『証言モーヲタ』に見られる人間模様からは、「相互架橋可能な多様性エントロピーの限界」について色々と考えさせられます。たとえば嶺脇社長のコメントにこのようなものがあります。

そこのプライベートとか、ホントにNGのヤツがあったんですよ、絶対書いたら問題になるようなことも笑いながらやるんですよ、ビバ彦さんは。この人狂ってるなと思ったこともあって、そこから行かなくなったんですよ。そこはいまも触れちゃいけないんだろうなと思うんですけど、それを見せられたとき、この人たちのモラルのなさというか、人としてっていう部分に触れてしまって。そこからイベント行かなくなったんですね、行くと嫌な気分になるんで。うたか(注8)さんのラブポエムとかのほうが僕は楽しいんですよ。吉田豪. 証言モーヲタ ~彼らが熱く狂っていた時代~ (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2789-2795). Kindle 版. 

この「うたかさんはOK、ビバ彦さんはアウト」というリミットの感覚は自分には非常にわかります。このリミットを越えると相互架橋は不可能です。かといって、このリミットを越えていないはずの存在をジェントリフィケーションの名のもとに排斥していくのもマズいわけで、自分がロマン優光さんの書くものがとても好きなのは、彼が常に「多様性エントロピーの限界」に立ちながら、そのリミットを丹念に見極めようとしているからなのだと思います。その意味では、モーヲタ文化というものは多様性エントロピーの限界に挑んだ90年代精神の集大成のごときものであり、その後、架橋に耐えられくなった世界が島宇宙化に向かって行ったのは、やはり必然だったのかもしれません。

さて、「アンジュルムはどこから来てどこへ行くのか」というタイトルを冠しながら、「どこから来て」の部分だけで既に一万字に差しかかろうとしており、「どこへ行くのか」の部分はほぼ「今後の宿題」ということになりそうです。少なくとも現時点で明らかなのは、アンジュルムは今世紀の初めに冷凍保存された「90年代精神」のカプセルの中で育まれた存在である、ということと、かつての「建国の父」たちのように各界のヲタクたちがわらわらとアンジュルムの周りに吸い寄せられているということです。そして彼ら彼女がアンジュルムに期待しているものは、「カプセル」の外側に広がる千々の「島宇宙」に乱れた世界を一つにできる「夏将軍」としての役割であり、それはかつてやはり「建国の父」が夢見た90年代的な「相互架橋」の理念と通ずるものがあります。

ただし、たとえば堂島孝平という90年代半ばにデビューしたミュージシャンは、ロマンポルシェ。やライムスターのような「周縁部」ではなく、90年代邦楽の王道に立ちながら様々なジャンルのクロスオーバーによって自らの音楽を作り上げていった人です。このことから漠然と思うのは、建国の父たちが周辺部出身の外連味によって冷凍保存したカプセルを「解凍」するものは、「王道」の持つ「外連味のなさ」なのではないか、ということであります。そしてこの「外連味のなさ」こそが、腐敗した外連味が悪臭を放つネット民の文化をキャンセルしながら、乱れた世界を架橋していくことができるのではないか。現在進行形の物語を引き続き注視しながら、今後も考えていきたいと思います。







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