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音楽界の「理解ある彼」:sugarbeans感謝祭

 昨夜はLIQUIDROOMで行われたsugarbeans感謝祭に行ってきた。

 堂島孝平×大森靖子×吉澤嘉代子という「大アンジュルム」推しの自分としてはマストなミュージシャンの共演ということもあるが、ZOCを追うようになって以来しゅがびんさんにも注目するようになって、アルバムの『つぶあんこしあん』も結構なローテで聴いている。あと彼が全編曲を務めているMAPA『四天王』は、アルバムの完成度としてはZOCの『PvP』を上回るんじゃないかと思う。表題曲「四天王」から「アイドルを辞める日」までの振り幅は強烈なのに、何故か同じ人が携わっているという統一感を感じられる。もちろんそれは大森さんの作家性なのだけど、それにきっちり伴奏/伴走した上で拡張しているしゅがびんさんは只者ではない。

オープニングが「ビッグバンドの夢」そのままで、ああ、今回の企画はこの曲から派生したのだな、とすぐ分かる作りになっていた。自分は最近流行りの「インスパイア・ソング」みたいに企画に当てて曲が作られるような流れより、曲から派生して企画が生まれるみたいな流れの方が好きだし、その方が物作りとしては自然なんじゃないか、とも思う。山之口理香子さんはパントマイム的に出てくる時は魔物的な役割のことが多いけど、基本的にユーモラスな人なのでこういうのもどんどん増やしてほしいな、ということを思った。

ゲストごとに寸劇が割り振られる進行になっていて、何というか落語に高座のような展開であった。「ビッグバンド+歌劇」というのは先日書いたデヴィッド・バーンから小沢健二の流れにも棹差しているようにも思えて、しゅがびんさんという人が「プロフェッショナリズムとアマチュアリズムの混淆」の権化のような人なのだと思う。ただ、彼本人はバーンやオザケンのようにケレン味のある人ではない。とにかく嫌味なインテリ臭とは皆無なのだ。だからこそ、今回集結したような一癖も二癖もあるアーティストたちが彼の存在を「サプリメント」として服用することで、自分自身のアクを「脱臭」することに成功しているのかもしれない。

落語の高座のようであった、という話であれば、大森さんの出番は「中入り前」であった。「死神(そう言えばこういうタイトルの噺もある)」の絶叫で一旦幕が閉まったのはそういうことだろう。「死神」は少人数編成も良いが音源盤のバンドアレンジも好きなので、今回の両者のよいとこどりみたいなアレンジはお得感があった。大森さんのパフォーマンスは射的場なのに容赦なくバズーカをぶっ放す感じで、まさに「中入り」前という感じだった。だいたい脂の乗った中堅の真打ちが務める役回りである。

先に書いてしまうと「大トリ」を務めたのは予想通り岸谷香さんで、ビッグバンドの「DIAMONDS」を聴いた時は「family name」と繋がって至極個人的に興奮してしまった。というのは、昔鴻上尚史が「トランジスタ・ラジオ」と「DIAMONDS」を挙げて、「『ある時代の世代体験を象徴する楽曲』というものが10年に一度くらいの頻度で現れる」という話をしていて、それ以来自分はその視点で邦楽界をヲチしているのだが、「DIAMONDS」の後は「アジアの純真」→「ロックンロールは鳴り止まないっ」→「family name」だと思っていたからである。その意味でしゅがびんさんが「DIAMONDS」と「family name」を繋いだというのはやはり凄いことなのだ。そういえばPUFFYは堂島さんと盟友関係にあり「アンジュルム2」を名乗っているし、「ロックンロールは鳴り止まないっ」を売り出した時の神聖かまってちゃんのマネージャーは劔樹人氏である。やはり「大アンジュルム」は時代を貫くのである。

大森さんが「中入り前」なら、堂島さんは大トリの岸谷さんの前の「ひざがわり」で出てきた。長丁場に疲れた客をリフレッシュさせるような変化球と、大トリを食わないような「小物感」が同時に求められる難しい役どころで、だいたい実力派のベテラン真打ちが務める。堂島さんはここで、「他のゲストには寸劇の台本が与えられているのに自分には与えられていないことにヘソを曲げる」寸劇で、見事に「ひざがわり」の役割を果たした。「きみのため」は「ベテラン噺家」みのあるシンプルな名曲だが、そこに改めてビッグバンドの肉付きが加わるとまた別の趣深さが出る。これは先述の「死神」にも繋がる話である。

吉澤嘉代子さんは、そもそも生で動いて喋っているのを初めて見たのだが、想像していたのよりもずっとタフな人なのだな、という印象を受けた。音楽業界に詳しい友人曰く「周囲に愛されるタイプ」だそうである。しゅがびんさんを指して「不祥事は絶対に起こさないけど変な人」というパワーワードを口にしていた辺りも含め、大森さんとは全く別のタイプだが、音楽以外の部分でもしっかり爪痕を残せる独特のタフさをそのMCから感じた。ただ、それはしゅがびんさんを中心とした空気感あってのことかもしれないし、何であれ、挙動不審な人が堂々と挙動不審でいられる空間は素晴らしいものである。そういう空間においては、「不祥事」など絶対に起こり得ないからだ。

他のゲストの方々の中では分島花音さんが個人的に刺さった。何なんですかあの人は? 業界通の友人に聞いてみても「初めて聞いた」というし、芸歴同じくらいの「俺たちの花音」が調子こいたツイートばかりで15万くらいフォロワーがいるのに、こんな凄い人が3万くらいなんて世の中おかしい! だんだん「俺たちの花音」に腹が立ってきた! ということで巫まろさんが理不尽なとばっちりを食らうなどしていた。とにかく「自由落下とピノキオ」は名曲です。是非ご一聴ください。

ZOCの『PvP』を聴いた時、「これは音楽業界総力戦だな」ということを思ったものだが、とにかく文化芸術が色々と厳しい時代にあって、かつては各々のニッチで悠々自適にやってきた人たちが手を携えざるを得なくなっている。社会状況としては厳しいものがあるが、文化状況としてはその混淆の中から面白い組み合わせのものが生まれてくる時代でもあると思う。大森さんの寸劇がしゅがびんさんと深夜のコンビニのバイト仲間という設定だったのはすごく象徴的で、岸谷香の時代であればあり得なかった、大森靖子とsugarbeansくらい才能のある人たちが深夜のコンビニでバイトしてるような状況というのも今の時代ならリアリティがある。それはそれで憂うべき状況ではあるが、そこから何が立ち上がってくるか、ということに自分はやはり注目したい。その時、そうしたシーンの結節点として、しゅがびんさんの佇まいとそこから立ち上がってくる音楽性を「理解ある彼」と自分は名付けたい。今回のバナー画像は大森さん製作のしゅがびんナナコレシールであるが、確かにこういう顔で彼女にプリクラをとられる「理解ある彼」というのは本当に存在しそうである。そして重要なのは「理解ある彼」は、決して「自分がない彼」という意味ではない、ということなのである。

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