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90年代から経った時間の詩

和田彩花の「今夜はブギー・バック」カバーについて劔さんから以下のような呼びかけがあった。

最初にこの話を聴いた時、自分は「批評的意義」について語るというよりは、「自分がこの曲を聴いて感じたこと」を率直に述べたい、ということを思った。しかし、その前提として少し書いておかなければならないことがある、と思い、色々と書き連ねていたら例によってひどく長くなってしまった。極めて個人的な思い出話を含む冗長な文章ではあるが、ご笑覧いただければ幸いである。

まず、自分の場合1994年という年に「青春」と呼べるような鮮烈な思い出はない、というところから始めたい。いろんな意味で中途半端な年だったように記憶している。個人的にはちょうど大学入学と入ゼミのはざまの年で、大学でもバイトでも現状維持的な状況になり、人間関係の新陳代謝が人生で最も停滞していた時期だった。個人的には何となく「いつめん」で麻雀を打っているうちに一年が終わったような感覚がある。

時代状況も同じようなものであった。前年の1993年には「55年体制」が終わり「政治改革」が始まったが、その熱は翌94年に細川護煕首相が辞任した辺りで完全に消え失せてしまっていた。次年の1995年は、阪神淡路大震災とオウム真理教事件、さらにはWindows95発売という、時代精神を左右するような画期の年となるのだが、94年の日本の、少なくとも自分の周囲は、ひたすら体温が低かった。

もっとも別の記事で書いたように、邦楽界には既に興味深い変化の兆しが見え始めてはいた。だが、大きな変化の直前というのは表面的には常に永遠に続くかのような停滞感が前面化する。自分の周りの「いつめん」はそれなりに当時のサブカルに造詣の深い感じの連中で、いわゆるメジャー邦楽をバカにしながら、90年代の渋谷系音楽を好んで聴いていた。ちなみに友人の家で徹マンをしながら流れていたのは「スチャダラ外伝」であり、耳タコになるまで聴いていたのはスチャダラパーのMC主体の「今夜はブギー・バック(smooth rap)」の方で、実は小沢健二のボーカルが主体の「今夜はブギー・バック(nice vocal)」の方はあまり聴いていない。ロマンティック・ラブ要素が前面化していた後者よりは、スチャダラパーのコミカルさが前面化してた前者の方が、「もう麻雀やりたくねー!」と叫びながら始発が動き出すまで徹マンを繰り返していた我々の1994年には相応しかったのかもしれない。

2019年に豊洲ピットで行われた小沢健二のライブにスチャダラパーが乱入して「今夜はブギー・バック」が始まった時、「あの頃の僕らと言ったら いつもこんな調子だった 心のベスト10第一位は こんな曲だった」という歌詞は今夜のためにあったのだな、と思った。おそらくあの曲は、1994年の時点から「あの頃」を振り返る曲ではなく、後から「1994年」を振り返るために書かれた曲なのだ、ということである。小沢健二という作家はこういうことをよくやる人で、同年に発売された『LIFE』に見られる過剰なまでの多幸感の強調も、「1994年」が一つの移行期に過ぎないという同時代認識が彼の中にあったのではないか、ということも時に思う。

1994年の自分たちが何故あそこまで青春を浪費していたのかといえば、1989年から1994年までの間に日本の「青春」が枯渇してしまっていたからである。1989年は日本では年号が変わり、世界ではベルリンの壁が崩壊した。世の中はバブルの真っ最中で、夏の参院選では社会党が躍進した。「何か」が変わりそうな予感が世の中に充満していたが、結局何も変わらず、ただバブルだけが崩壊した。そして1993年から94年にかけての前述の顛末は、我々の脱力感にひたすら拍車をかけた。

岡崎京子の慧眼は1993年に彼女が連載が始めた「リバーズ・エッジ」において、この状況を「平坦な戦場」と表現していたのだが、その彼女が1994年に入った頃からやけに小沢健二の『LIFE』を推し始めた記憶がある。彼女もまた、「1994年」が移行期に過ぎないという認識に少しずつ至りつつあったのかもしれない。が、当時の自分には小沢や岡崎の反語的表現というのは、心惹かれつつもよくわからないところがあった。それよりは一見同じような脱力感を漂わせながらも、「ここらへんで、そろそろ僕が、その花を咲かせましょう」と明確な未来志向の言明を行った奥田民生の「愛のために」の方が、自分の「心のベスト10第一位」としては記憶に残っている。

一方で電気グルーヴは変わらず自分の通奏低音としてあった。1994年の彼らのアルバム『DRAGON』は、前作『VITAMIN』以上に歌詞が少なく、グローバル水準での最先端テクノを真面目に追求するようになっていった。この年の大晦日は石野卓球が渋谷ONAIR EASTで主催したGIANT TABで年越しをした。帰りの電車の中で「お正月」の「出でよ初日の出 照らせよ我が大地を」というピエール瀧の声を聴きながら帰ったのを覚えている。かつて電気グルーヴの中核をなしていた日本サブカルの毒は影を潜め、「卓球はストイックに海外志向、瀧はおバカにお茶の間志向」という分業がいよいよ確立されつつあった(瀧が「ポンキッキーズ」に出演し始めたのも1994年である)。その意味では、電気グルーヴは既に「ポスト1994年」へと移行を果たしていたのかもしれない。

洋楽で何を聴いていたかを思い出してみると、アシッドハウスリバイバルにどハマりしていた1993年と比べ、デジタルよりもアナログ、ヨーロッパものよりはアメリカものに走っていたように感じる。いつも時代の風を読むに敏なプライマル・スクリームは『Give out But Don't Give Up』というアメリカンロック・テイストのアルバムを出していて、前作『スクリーマデリカ』に結実したセカンド・サマー・オブ・ラブのノリは完全に過去のものになったことを実感した。ビースティ・ボーイズの『Ill Communication』もこの年である。グランジが苦手で90年代前半の洋楽ロックはUKものばかり聴いていたのだが、USものがだいぶ面白くなってきたな、と感じたのがこの年だった。

改めて思い出してみると、1994年は自分が初めてアメリカ本土に行った年である。ゴールデンウィークには叔母に付き合ってシカゴに行った。ちょうどネルソン・マンデラが南アフリカの大統領に就任した時で、黒人の新聞売りが「号外! 号外!」と狂喜乱舞しながらシカゴの空に新聞を巻き散らしていたことを鮮烈に覚えている。あとは、夏休みに東欧を旅行した時、チェコの鉄道が突然運休になり、1989年に西側へと逃亡する東側市民のようなノリでトラックの荷台に乗ってオーストリアとの国境を越えた記憶が強烈だ。つまり世界は確実に「良い方向」へと動き続けていること、とは言え、西側と旧東側ではまだ大きな差があることを実感させられた海外体験であった。

あとは6月にアメリカW杯があった。ブルガリアやルーマニアといった東欧の国々が躍進していた。Jリーグの名古屋グランパスにはユーゴスラヴィアの至宝、ドラガン・ストイコビッチがやってきた。NHK-BSやWOWOWでは海外リーグの試合も観られるようになり、バレンシアのミヤトビッチやサンプドリアのミハイロビッチといったユーゴスラビアの選手を自然と応援するようになった。秋には「パルプ・フィクション」が日本で封切りになり、ミニシアターブームも相まってタランティーノとかリンクレイターみたいなセンス勝負の新世代アメリカ映画に触れる機会もぐっと増えた。海外サッカーとシネフィルの兼ヲタというのは実に忙しい。一日一試合+一作のペースで観戦/観賞していくと、四時間があっという間に溶けていった。

こうやって振り返ってみると、1994年という年は以前に別記事でも書いたように、自分が「日本のサブカルシーン」から乖離していく準備段階の年だったようだ。「ようである」としか言えないのは、自分の身体に直接結びつく記憶としてはひたすら煙草臭い雀卓の思い出しかなく、たまの海外旅行を除けば、鮮烈な記憶は全て画面かスピーカーの向こうにあったからである。ところが1995年以降になると記憶が突然鮮明になる。「いつめん」はゼミに分かれることであまり雀卓を囲まなくなり、やがて就活を始めた彼らと大学院進学を目指す自分の道は分かれていった。そのことに反比例して、自分の世界のエントロピーはあの雀卓から一気に拡大していったのである。

まあ、自分はヨーロッパ史研究を志す学生ということで、かなり特権的な場所にはいたと思う。ゼミで一週間に英文を50ページくらい読まされたせいで脳内に英語が蓄積され、海外に出かけた時もあまり会話に苦労しなくなり、コミュニケーションの幅が一気に広がった。さらに1996年頃からは大学図書館のIT化に合わせて、学術データベース関係の学生アシスタント職に滑り込んでITスキルを一早く身につけたことも大きい。要は大学から給料を貰いながら己をグローバル化できたわけである。おかげで研究でも趣味でも、アクセスできる海外情報の量は指数関数的に増えていった。

また、自分はこの学生アシスタント職が創設された時の初期メンバーだったこともあり、いつのまにかバイトリーダー的な役割を任されることになった。そうなると学部生から院生、幅広い学部にわたるアシスタント仲間や、図書館の職員さんなどと円滑にコミュニケーションをとっていかなければならない。そのためのライフハックとして自分が実践したのが、「他人が推すものは無条件で試してみる」ということだった。こういうことはプライベートではあまり気がすすまないのだが、金を貰えるならば話は別である。相手が推すものを自分のツボにハマらなくても給金は発生するし、ツボにハマれば一挙両得というわけだ。そんなこんなでよく言えば見聞が広まり、悪く言えばかなり無節操な人間になってしまったと言えるだろう。1994年のあの雀卓にいた自分は、その三年後の自分がSPEEDの「GO! GO! HEAVEN」を熱唱するような人間になるとは思わなかったと思う。そう考えると、あの頃の自分は電気グルーヴが『KARATEKA』から『DRAGON』の間に行った変化を、二年遅れでキャッチアップしたようなところがある。卓球のグローバル志向と瀧のお茶の間志向を、一人で兼ねるようになったのである。

まあ、自分の好きなように生きて金が貰え、かつ周囲との関係も円滑というのは素晴らしいことである。なので、あのWindows95の年に起きたもう一つの大事件、オウム真理教事件がもたらした諸々の変化からは完全に無縁の場所にいた。つまり、これも別記事で書いた拗れたサブカルの悪趣味堕ちの話とか、あるいは逆にオウムへの反動として現れ始めた過剰な現状追認主義(「どんなにつまらなくても日常を生きるしかない」みたいなやつ)、全くもって理解できなかった。もし、94年のあの雀卓に自分がとどまっていたとすれば、ひょっとしたらサブカルを拗らせていたのかもしれないし、その後普通に就職して忙殺されていたら、現状追認によって認知的不協和を解消するような人になっていたかもしれない。しかし、その頃の自分にとって毎日は「拗れる」暇もないほど楽しいものだったし、仮に日本社会が「終わりなき日常」の中にあったとしても、その外の世界にはもっと刺激的な冒険が常に見え隠れしていた。今思えば己のナイーヴなオプティミズムに気恥ずかしくなるが、二十歳そこそこの若造の心持ちとしては、このくらい明るい方が永続的な自己肯定感を育むものになるので、あれでよかったのだと思う。

さて、「1994年」をはみ出した自分史を語り過ぎてしまった気がするので、この辺でまとめればこういうことになる。「ポスト94年」の自分は、世界史的な視点に立つなら当時の米民主党の始めたグローバリゼーションとIT化(そう言えば『WIRED』日本版の創刊も1994年である)、日本文化史的な視点に立つなら90年代前半までのメジャー系邦楽とマイナー系邦楽が融合した形で現れた「J-POP」に適合的な人間として自己形成を果たした。そして、その後の自分史に大きな「断絶」はない。基本はあの頃に身につけたスキルとか世界観の延長線上で生きてきているように思う。確かにバリバリのリバータリアンだった90年代の自分から考えると、経済的には左傾化(再分配主義化)、文化的には右傾化(亜細亜主義化)が進んだようには見える。前者に関しては経済的自由主義が行き過ぎるとマズい、ということがあり、後者に関しては「米民主党的なるもの=リベラル」のあり方が随分と変わってしまったように感じる、ということがあり、色々と言いたいことはあるのだが、自分がアメリカ人だったら共和党に投票することはないだろう、という点に全く変わりはない。

そしてハロプロと大アンジュルムの「90年代 J-POP的性格」については別記事で触れた。ここで論じたように90年代J-POPを終わらせたのは明らかにモーニング娘。であり、逆に言えばつんく♂のトータルプロデュースを離れた後のハロプロは、モー娘。が作り出した90年代と00年代の間の断層の向こう側、つまり90年代の音楽史を逆走しているように感じている。その中でも興味深いのはやはり大アンジュルム世界で、たとえば大アンジュルムの音楽的両輪たる和田彩花とZOCには、90年代半ばにJ-POPに流れ込んで融合したかに見える二つの流れ(メジャー邦楽とマイナー邦楽)の間に生じる緊張感を感じることが多い。今思えば90年代の頃もJ-POPを広く浅く消費しつつ、時折自分が深くハマったのはPUFFYとか川本真琴とか、そうした緊張感の存在を感知した時のように思える。そして、それはちょうど今のハロプロ全般と大アンジュルムに対する自分の姿勢と相似形になっている。「25歳を過ぎた人間が大きく変わることはない」という自分の持論についてはどこかで語ったような気がするが、それは自分自身にも当てはまるのである。

そんなわけで、今回の和田彩花の「ブギー・バック」で朗読の最初の部分を聴いた時には、まず「してやったり」と思った。何しろJ-POPが始まった「グラウンド・ゼロ」の年の曲を歌うのに、大アンジュルムの始祖和田彩花ほどに相応しい者はいないだろう。そして既に述べた通り「ブギー・バック」とは「置き去りにして後から振り返る」目的で最初から作られた歌である。たとえば「ほんのちょっと困ってるジューシーフルーツ」などというふざけた言葉も、「あらかじめ置き去りにする目的で紡がれた言葉」なのだ。だから自分の場合「ブギー・バック」をあの雀卓に置き去りにすることで今に至る道を歩み始めた。自分は「ブギー・バック」世代だが、「ブギー・バック」側に自分の「青春」はない。その後、ロンドンやウィーンやブリュッセルにいた時の自分の「青春」は、それは今パリにいる和田彩花の側に属する。つまり今回彼女が「ブギー・バック」に向けた冷めた視線に胸を痛めるどころか、痛快な共感を感じてしまったのである。しかし、深い共感は時に命取りになる。風呂上がりにご機嫌な気分であれを聴き始めた自分は、徐々に背筋が寒くなっていった。恐ろしい幻聴が聞こえ、恐ろしいビジョンが見えてきたからである。それはあまりにもおぞましくリアルで、あれからまだ一度もあれを聴き直していない。

1994年という年を境に、自分はハプスブルク帝国という現在は存在しない国の歴史研究へと舵を切る。この国はウィーンを首都として、十八世紀には西はブリュッセル、東はリヴィウまでを版図に従える巨大な多民族帝国であった。あまりにも多彩な主題を包含したこの国を研究対象に選んだ理由の一つは、この国の歴史をおさえることで西洋史を全方位的に見渡すことができる、という若造なりの直感があったからで、その直感自体は全く間違っていなかったと思う。

しかし、いかに「見晴らしのいい場所」に立っても、見る人間の目が濁っていては仕方がない。たとえば自分の場合はあまりにもウィーンより「西」ばかりを見てきた。その理由はいくつかあって、この帝国はウィーンより「東」に広大な領土を持っており、長らく「旧東側」への問題関心から「東半分」の研究が盛んであった一方、「西半分」の研究史は比較的未開拓であった。ところがベルリンの壁の崩壊以降、EUの東方拡大もあいまって「西ヨーロッパの一部としてのハプスブルク帝国」という問題関心が一気に浮上した。

 このことは幾分山師的なところのある自分の目にはとても「美味しい」ヤマに見えた。幸いにして自分は学部卒業の時点で多少なりともドイツ語とフランス語の知識があった。つまり新たに「東側」の言語を習得するコストを払わず、既習言語の知識を深めるだけで、大向こうから持て囃されるブルーオーシャンを泳ぐことができるわけだ。それに加えてドイツ語とフランス語の両方ができるというのは、大学図書館関係の業務など研究領域以外でのスキルという意味でも重宝されたし、何よりも「西半分」は「東半分」よりも留学する分には明らかに快適で豊かであった。かつて「ブギー・バック」をあの雀卓に置き去りにしたのと同じ気楽さで、この点でも自分は山師として実に「上手く」振舞ったと思う。

しかしこの数年、その点で自分の目が実に濁っていたな、と思うことが増えた。その切っ掛けの一つは、自分がアンジュルムに関心を持つ端緒となった「1989年の本田美奈子」をモデルにした小説の執筆である。自分がこの小説を塩漬けにしてしまっている理由の一つは、1989年の東欧革命について調べれば調べるほど、少なくともベルリンの壁崩壊までは「旧東側の改革社会主義」が成し遂げたものであり、いつの間にかそれが「西側の勝利」として簒奪されてしまったのだ、ということを確信したからである。そしてもう一つは、この数年大学で概説的な講義を受け持つことになったため、改めて帝国の「東半分」を語るのに重要な正教スラヴ世界の歴史を学び直してみたことである。その結果自分が改めて実感したのは、正教スラヴ社会はあまりにも西方キリスト教社会と異質の「形式」を備えた社会だ、ということである。

「自由主義対社会主義」は思想の内実をめぐる対立軸だが、近年ジョー・バイデンが声高に叫ぶ「デモクラシー(民主政)対オタクラシー(専政)」は、思想の形式をめぐる対立軸である。個人でも社会でもそうだが、長年培われた思考や言動の「形式」を変えることは、実はその「内実」を変えることよりもはるかに難しい。ロシア革命で帝政にとって代わった立憲民主政はわずか8ヶ月しか続かなかったが、それにとって代わった共産党独裁は80年以上も続いた。19世紀に広義のウィーン体制が長く続いたのは、西欧とロシア、両者の属性を併せ持つハプスブルク帝国が、両者の間で緩衝地帯としての役割を果たしたからである。あるいはミハイル・ゴルバチョフはその機微をわかった上で、1989年の東欧人民の自主的な「社会主義改革」をあえて放置することで、あの地域に東西両者の属性を併せ持つ緩衝地帯をもう一度築こうとしていたのかもしれない。だとすれば、この20年間能天気に「西ヨーロッパの一部としてのハプスブルク帝国」という構図に従って研究してきた自分は、貴重な緩衝地帯の消滅に加担していた、ということになりかねないのだ。

「今夜はブギー・バック」が発売された1994年3月、ロシアではウラジミール・プーチンがサンクトペテルブルクの副市長に就任していた。その後数年でロシア大統領に登りつめる彼のキャリアは、ここからスタートしたのである。その意味では自分があの時「ブギー・バック」を雀卓に置き去りにして飛び乗った物語は、その始まりからして足元を掘り崩され始めていたのである。それは90年代半ばの日本文化を侵食し始めていた自意識の病から逃れるには賢明な所作だったかもしれない。しかし自分は、軽やかにそこに逃げ込んだつもりになっていた和田彩花の詩の世界の中で、陸続きに響くロシア軍の軍靴の音を確かに聞いたのである。

少し前に「90年サブカルへの自省」が流行っていた頃、自分は別記事で、自分が「反省すべき点」があるとすれば、90年代サブカルに拘泥していたことよりも、そこからの離脱があまりにも「お気楽」すぎた点にある、ということを書いた。今回は自分の言葉の重みを改めて痛感することになってしまったようである。自分はあまりにも「お気楽」に過ぎた。正教スラヴ世界を甘く見ていた、ということもそうだし、たとえばトランピズムなどを通して正教スラヴ社会を西側から下支えしているようなシニシズムに対しても甘く見ていた。何故ならそのシニシズムは、確実に自分があの雀卓に置き去りにしたものから始まっているからであり、そうしたシニシズムを生み出す要因となっている西側の行き過ぎたジェントリフィケーションについても同じことが言える。いずれにせよ自分は己の快適さを重要視するあまり、それら全てに対して愚痴をこぼす以上のことはしてこなかった。ただそれは逆に言えば自分の飛び乗った物語が何だかんだ前に進んでいくものだ、という盲信に基づくものだったように思える。

ということで、自分が和田彩花の「今夜はブギー・バック」カバーを聴いて真っ先に感じたのは、「自分の手を動かして、物語を紡ごう」ということに尽きる。幸いにして自分には小説と研究がある。物語がひとりでに進んでいくということはない。物語は、自分たちの手を動かして紡いでいくものなのである。

追記

今回の記事を書くにあたり色んな年表を参考にしたんですが、以前世田谷美術館で催されていた「岡崎京子 戦場のガールズライフ」展の目録に載っている年表を見たところ、彼女は1994年夏(『リバーズ・エッジ』の連載終了直後)に下北沢から原宿に仕事場を移してるんですね。もっと早い時期だと勝手に思っていたのですが。

まあこれも「1994年」という静かな転換点を象徴する出来事だと思います。翌95年には安室奈美恵がTKプロデュース下に入って完全にブレイクし、渋谷系文化が渋谷に溢れかえったアムラーに追われて下北沢に逃げ込む流れが始まってくる。1994年末には下北沢GARAGEもオープンしてます。この辺の話は下記記事に書きました。和田彩花による小沢健二カバーに着想を得た話としては、今回の記事の姉妹作的な位置付けになると思います。

今回改めて思い出してみると、世の中で「渋谷系」が流行っていた頃、自分は下北沢にいたことの方が多かったように思えます。単純に通学路だったのと、大きな街の混雑があまり好きではない、ということもありました。1992年秋、SHELTERでの電気グルーヴ男祭りイベントはとても楽しかったです(この時と2013年正月富士スピードウェイでのママチャリGP、自分は人生で計二回ピエール瀧と至近距離ですれ違っています)。よくよく考えると自分は1994年で大学の通学キャンパスが変わり、めっきり井の頭線を使わなくなります。サブカル界の覇権が渋谷にあった頃には下北沢にいて、覇権が下北沢に移動し始めると下北沢に行かなくなる、という次第で、結局自分は何らかの「文化的故郷」を持たないまま大人になってしまいました。

私の場合ただの偶然でしたが、下北生まれ下北育ちの岡崎京子がそれをやっていた、というのは面白いと思いました。「下北がオシャレ」みたいなことになって、文化的記号の負荷を背負わされる前にするりと身を翻して逃げていくムーブはさすがだと思います。ちなみに彼女は1995年に入った辺りから『CREA』で「女のケモノ道」を連載し始めるのですが、ここで渋谷のコギャルを絶賛してるんですね。あの頃の『CREA』は、あらゆる文化的記号に対してフラットに俯瞰する視座を与えてくれる雑誌でした。

今回の記事に即して言うならば、岡崎京子のムーブというのは完全に1994年以降のJ-POPの流れと軌を一にしています。要はJ-POPの「郊外化」です。前述の記事で書いたように、ハロプロもアンジュルムもその延長線上にあります。そして「郊外化」の背景には当然グローバリゼーションの進行という話があります。自分が「ファスト風土はケシカラン!」みたいな話にあまりノレないのは、前述の記事で書いた通り自分が東京郊外の多摩地区出身だということもあり、世の中全体の「郊外化」とグローバリゼーションにあまりにも適合的に生きてきたからだろうな、ということを今回改めて思いました。「文化的故郷」を持たない人間は、渋谷にも下北にも「興味」を持ちこそすれ、実存がかかった「愛着」は決して抱かないからです。

で、それはそうなのですが、なので自分は楽しく生きられてるからOK、で済む時代はとうとう終わってしまい、これからどうすべきか、ということをぼちぼち考えていかなければならないようです。その際、今回の和田さんのカバーはとても啓発的なものでありました。彼女も自分と同じ郊外人ですが、そうであるからこそ全ての文化的負荷をフラットに俯瞰した上で、その外側にある「大きなもの」を見据えることができる。その「大きなもの」として、今回はグローバルな話を、前述の記事ではローカルな「大地の記憶」みたいなものの話をしたつもりです。これは郊外人の強みだと思っています。

最後になりますが、今回の記事を書く切っ掛けとなった劔さんのエッセイを紹介して終わります。「ポスト1994年」の青春の思い出としては、「今夜はブギー・バック」よりもこちらの方がはるかに汎用性が高いはずです。


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