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アイドルを叩くな。ヲタクを叩け。

 前回この記事を書いてから一月が過ぎ、アンジュルムの頭上に突きつけられていた「ダモクレスの剣」であった太田遥香問題が、ひとまずの決着を見ました。

裁定そのものは、高度に政治的な決定だったと思います。アンジュルムとハチは「深手」を免れることができた。ただし(十分に回復可能なものではあったにせよ)アンジュルムとハチが「無傷」だったわけではない。したがってこれから検証されるべきなのは、今回の「傷」が、どこまで不可避的なもので、どこからが可避的なものだったか、ということだと思います。それも誰かを叩いて溜飲を下げるためではなく、今後二度とこういったことを避けるための材料として、という意味においてです。

ちなみに私自身は、こちらの記事などで論じてきた通り、ハチの離脱はアンジュルムの「大アンジュルム」化(そしてアンジュルム本隊の「小アンジュルム」化)という大きな生態学的な流れの中では、ある程度不可避的な現象だったのではないか、と考えています。アンジュルムというグループは、メンバーがその個性を覚醒させ、やがてアンジュルム本隊という箱が許容できる多様性が閾値を超えた時、自然と各メンバーが各々のフィールドに散らばって活躍する「大アンジュルム」という宇宙を構成するようになっていった。このプロセスは福田花音の卒業から始まったものではありましたが、和田彩花の卒業(アンジュルム第1章の終わり)を契機に本格化するようになります。そして第二章でのアンジュルム本隊は逆に多様性を縮減させ、よりメジャーショービズに特化した「小アンジュルム」へと変貌していきました。

その意味においては、伊勢鈴蘭と太田遥香はいずれもアンジュルム第1章末期に加入したメンバーではありましたが、前者が第2章の「小アンジュルム」に適応的なメンバーだとすれば、後者はアンジュルム本隊が「大アンジュルム」を辛うじて内包できていた、第1章の「最後の登場人物」だったのではないか、と思うのです。実際、第1章最後の曲である「恋はアッチャアッチャ」のカオティックな世界観の中では、ハチの「シロクジチュー」は鮮烈な輝きを放っていたのに、第2章最初の曲である「私を創るのは私」での彼女は完全に埋没してしまっている。この間の半年でアンジュルムの周りのクライメイトは完全に変化してしまっている以上、このことを彼女の「研鑽不足」だけに帰するのは、生態学的な認識としてはあまりに酷だと私は思います。

また、こちらの記事でも論じた通り、メンバーが何か間違ったことをした時はうやむやにせずしっかり訊して責任を取らせるのは、アンジュルムのよき伝統でもある。ただ一方で、それが最近の風潮である「キャンセル・カルチャー(一度のやらかしで全ての可能性が奪われてしまう)」に繋がってしまうのは、非常によくないことです。「キャンセル・カルチャー」にどっぷり浸かりながら過失者叩きに淫している者たちは、自分は公共の安寧に資するつもりで正義を振りかざしているつもりでしょうが、その実、公共的基盤を無意識のうちに掘り崩している、いわば「無自覚なパブリック・エネミー(公共の敵)」と言ってよい。ちなみにアンジュルムとは、あるべき「公共」の姿を象徴的に体現し、社会に向かって示す使命を背負ったグループであると自分は考えています。だとすれば、「過失には本人の責任を問いながら、再チャレンジの道も用意する」というのが、アンジュルムが示すべき最も公共哲学的に正しい解決策であろう、と思うわけです。

以上をまとめると、「アンジュルムとハチが『幸福な別離』を果たし、かつハチに再チャレンジの道を用意する」というのが、生態学的にも公共哲学的にも正しい解決策であろう、と自分は考えてきたので、今回の裁定そのものには納得しているわけです。ただし、この裁定において語られている事実については、少し眉に唾をつけて考えなければならない、とも思っております。

今回の件で荒ぶっているヲタクは、大きく二つに分かれます。「プロ極右」と「ハチ極左」です。前者は「プロ意識のないメンバーに容赦は無用」というタイプで、まさにキャンセル・カルチャーに淫している「自覚なきパブリック・エネミー」。一方後者はハチ可愛さのあまりアンジュルム憎しになってしまうタイプで、「メンバーの態度が冷たい」「ブログが素っ気ない」といった感情論を振り回す。ただ、いずれのケースにせよ、春先にハチの活動休止が発表された頃と比較した時、アンジュルムの公式にぶら下がるようなネガティブなコメントは激減しているという印象があります。おそらく、両陣営の一定数は今回の裁定にかなり納得しているのではないか。そして納得できない層も基本的にはヘタレなので、前回ほど世論が炎上していないところで一人気を吐くような根性を持ち合わせている者は少なく、Twitterなどではなくヤフコメなど人の目の付かないところで毒を吐き散らすしかないように見受けられます。

ちなみに私が個人的に危惧していたのは、これに先立つつばきファクトリーと小片リサの一件のような展開になると非常に困るな、ということでした。あの一件でも、やはり「プロ極右」と「リサ極左」が湧いて出てきておりましたが、事務所の裁定は「小片の為した行為についてかなり詳細に事実を認めながら、小片に(少なくとも形式的には)理解と温情を示す」といったものでした。この裁定は、もしかすると前段は「プロ極右」、後段は「リサ極左」に対応するためのものだったのかもしれませんが、結果的にグループと小片の株を著しく下げるものになってしまったように感じるのです。しかし、それに比べるとアンジュルムとハチのケースでは、「ハチの為した行為についての記述は曖昧な代わりに、ハチに対しての文面は厳しい」という形をとることで「プロ極右」も「ハチ極左」も少なくとも表面上は沈静化しているように見える。アンジュルムは新規ファン獲得の急先鋒と呼べるグループではあるので、新規の目に見えやすいところで炎上が巻き起こってしまうのは何としても避けなければならない以上、今回の「高度に政治的な裁定」は結果的に成功だったと言えるでしょう。メンバーの報告ブログにしても、トップバッターの伊勢鈴蘭とトリの佐々木莉佳子に「ハチ極左」の懐柔を委ねつつ、他のメンバーには簡潔な記述で「プロ極右」の懐柔を任せる役割分担は、実に見事なものであったと思います。

しかし、あまりにも「政治的」に出来すぎた話なので、やはりまず政治的意図ありきで、そこに記されている事実そのものはあくまで二義的なものなのではないか、という気にはなるわけです。ただし、今回に関しては確かに伊勢鈴蘭の言う通り、事実に関して余計な詮索をしない方がよいとは思う。というのは、今回は真実がどうであろうが特に問題はないケースだからです。たとえばつばきのケースのように真実をありのままに語った場合、ハチの「余罪」がもう少し出てきたとしても、「若い人の将来をキャンセル・カルチャーで無効化してはならない」という公共哲学上の命題に変わりはありません。また、逆に「そんなことでやめる必要はないのでは?」という真実が仮に出てきたとしても、「ハチは(少なくとも今は)アンジュルム本隊と決別することが生態学的に正しい」と自分は考えています。つまりいずれの真実が明るみに出たとしても、根源的な「正しさ」を損なうものではないにもかかわらず、明るみに出すという行為自体がいたずらに「プロ極右」「ハチ極左」の少なくともどちらかをいきり立たせ、そのことがアンジュルムとハチの将来に暗雲を投げかける結果になってしまうだけのような気がするわけです。

また同時に、現段階でアンジュルムメンバーとハチの関係が良好なのか険悪なのかという話も、実はどちらでもいい。本当に良好だとすればメンバーたちは「大人」だ、素晴らしい、ということになりますし、彼女たちが内心まだ怒っていたとしても、アンジュルムは4期と5期が実質同期のようなもので、6期二人は最初から即戦力だったことを考えると、上國料萌衣や川村文乃にとって7期の二人は事実上初めての「後輩」だったということになる。それが上手くいかなかったことに対する彼女たちの無念についてはやはり慮るべきであるし、第一彼女たちにとっての初めての「先輩」業が上手くいかなかったことにダメ出ししてしまうことも、やはり「キャンセル・カルチャー」の悪弊ではないか、と思うのです。そういう意味ではハチに対して「再チャレンジ」の道を用意するのであれば、上國料や川村に対しても同じようにするのがフェアというものでしょう。「真実」を明らかにした方がよいケースとは、そのことでフェアネスが回復されるような場合です。今回のように「真実」を明らかにした時、その「真実」がどのようなものであっても誰かが不当な損害を被るリスクがある場合においては、むしろ「真実」は伏せておいた方がよい(もっとも、その場合の「リスク要因」とは実のところ「プロ極右」や「ハチ極左」自身のことなのですが、残念ながら彼ら彼女らはそんなことには聞く耳は持たないでしょう)。

さて、そんなわけで今回の裁定が「高度に政治的」であったことは大いに評価したいわけですが、その一方でつばきファクトリーに対する裁定があれだったことを考えると、事務所全体に対する評価というのも何ともつけがたいところがあります。両者の裁定を下した人間が全く別人なのか、それともアンジュルムとつばきファクトリーではそもそも事務所の「政治的目的」が異なるのか(だとすれば、つばきヲタにとってはかなり不吉な話になると思いますが...)、はたまた単に「壊れた時計も日に二度は正確な時刻を指す」という話なのかはよくわかりません。ただ、「良くも悪くも昭和」というのがUFという事務所であります。このコロナ禍の中でハロメンの雇用を守り続けてくれているという話と、金を稼げなくなったロートルを首にできず、彼ら彼女らの食い扶持を稼がせるために大量にアイドルグループを作った結果リソースが枯渇してケアが不十分になる、という話はコインの表裏のようなものなのだと思います。また「言うだけで何もしない」と評判の悪い「しっかり指導を」とか「寄り添って」みたいな言葉にしても、極右と極左のモンスタークレーマーと対峙するのに生まれたリップサービスだとすれば、鶏が先か卵が先か、という話になってきてしまいます。

その意味では小沢あやさんがこちらの記事で書かれていたように、利害関係のない産業カウンセラーを配置すべき、という方がよほど建設的な提案です。ただし、カウンセラーというのはあくまで問題が起きた後に機能し始める存在であり、問題が起きないための「指導」とか「寄り添い」には向いていません。かと言って事務所にそれを求めたところでリソース的に不十分だとすれば(リソースが十分だったとしても「指導」とか「寄り添い」の能力というのはあくまで個人の資質や、関係性依存的なものなので、組織的に解決するのは難しいと思います)、その部分はやはり各グループの先輩に委ねた方がよいのではないか、と思うのです。

で、そういうことを言うと、「グループに丸投げして事務所が守らないのはよくない」という声が聞こえてきそうですが、そういう話ではない。要は上の人間には常に田中角栄の就任演説のごとく、「君たちは自由にやれ。ただし責任は全て私がとる」という態度であってほしいという話です。本来上の人間のすべきことは、下に丸投げして何かあっても責任をとらないことでは勿論なく、かと言って、何かが起こらないように手取り足取り「寄り添い」「指導」することもでもない。「何か」が起こることはもう織り込み済みで、「何か」があった時には矛先が自分に向かうようにお膳立てをすることなのだと思います。最近は「上を批判してばかりでは能がない」と言って「上を批判する者」を批判することで利口ぶる馬鹿が世の中に増えていますが、実のところ彼らこそ能がないので「『上を批判してばかりの者』を批判すること」しかできない。だとすれば、馬鹿の矛先が思考停止のまま弱い者に向かう社会よりは、馬鹿の矛先が思考停止のまま強い者に向かう社会の方が、まだマシな社会なのだと自分は思います。で、あるなら、馬鹿の矛先が自分に向かうように振る舞うのが人の上に立つ者の仕事ということになる。その点、今回が竹内朱莉が見事なまでに大将然と憎まれ役を買って出ているのを見るにつけ、竹内の上に立つはずの事務所首脳陣の振る舞いにはいささかの物足りなさが残るわけです。

ただし、そうしたことは生まれ持った人間の「器」で決まるところがあり、凡人に対して「非凡であれ」という要求をすることが建設的かどうかはいささか疑問だと思っています。だとすると、もう少し凡人でも対応できそうな提案をした方がよほど建設的です。つまり「何か」があった時の対応は竹内のような非凡人に丸投げせざるを得ないとして、せいぜい「何か」が起こる確率を減らすためのお膳立てをすることが凡人の仕事ということになる。ただし「何か」が起こらないよう手取り足取り「指導」や「寄り添い」をするのではなく、「何か」が起こる確率を減らすような「構造」を作ることが重要なのだと思います。そしてその点に関しては、アンジュルムは既に優れた「構造」を備えていると思います。それが、歴代2-3歳ごとの年齢差を伴うハイアラーキーです。

よくアンジュルムはモーニング娘。と比べて上下関係が緩い、ということが言われます。しかし、それはあくまでメンバー各自の精神性の問題であって、グループを貫く構造の方ははるかに整序立ってハイアラーキカルです(これは現メンの中で竹内朱莉の次に年長である川村文乃が「期」の序列を飛び越えてサブリーダーに就任することで、さらに整序立ったものになりました)。このハイアラーキーがあることで、目上のメンは豊かな人生経験をもって目下のメンを「指導」あるいは「寄り添う」ことができるし、目下のメンも相手がキャリアも年齢も上ということであればその助言に素直に耳を傾ける確率が上がる。ここ一年のアンジュルムからの卒業者の多さは、自律的な個人としての成熟ゆえのものであり、アンジュルムの人材育成の成功を意味するのだ、という話を自分は何度もしておりますが、むしろファンだからこそその理由を属人的な部分に帰することなく、構造的な部分に目を向けた方がより汎用性の高い話になるのでは、と考えています。

で、だとすると、そんなアンジュルムでも人材育成が上手くいかなかった場合に関しても、やはり構造的に考えてみた方がよいのではないか、という話になります。たとえば今回のハチのケース、あるいは状況はかなり異なりますが、相川茉穂のケースです。実は両者の構造的共通点は二つあって、一つは同時に複数の新人加入だったということ、もう一つは、少なくとも基本的なパフォーマンススキルにおいて、新人の間に格差があった、ということです。それ以外のケースを考えると、4期、5期、8期は単独加入で、加入後の不安な時期に先輩メンバーの愛情と指導を一身に集めて育っています。また6期は一人は既にハロプロで活躍していた即戦力で、もう一人もまたロコドル出身の強者であり、かつ加入時には既にハイティーンである程度精神的に成熟していた。しかし、精神的に未成熟な新人を複数人同時に面倒を見ることは、先輩メンバーにとってただでさえ負担が大きくなるだけではなく、新人の間にスキルの差が生まれてしまった場合などにはさらに厄介です。もちろん先輩メンバーは努めて平等に接しようと意識はするでしょうが、無意識レベルで出来の良い新人に好意が向いてしまうことは、どう頑張っても制御不能です。そして新人の方は先輩のそうした無意識レベルの心の動きを敏感に感じとりながら、劣等感を拗らせていくことにもなりかねない。で、こういうケースの場合には、それを避けるために個人レベルでの努力を要求するのではなく、最初からそんなことが起こらないような構造(すなわち単独加入か、もう一方の新人が劣等感を抱く必要がなく、先輩メンバーが指導コストを割く必要のない明白な即戦力メンとの抱き合わせ加入)でいった方が話が早いわけです。人間は環境設定でどうとでもなる生き物です。「もしかしたら笠原桃奈が伊勢鈴蘭と同時に加入し、太田遥香のようなことになっていてもおかしくはない」と考えられる想像力は、常に持っておいた方がよいと思います。

今回ハチに続いて船木結の卒業が既に予定されている以上、アンジュルムの既存メンは7人まで減ることが確定しています。そうなるとオーデなどによる新加入メンはまたしても二人以上になることが濃厚なわけですが、上記のことを考えると、できればまっさらな新人と明白な即戦力メンの抱き合わせが望ましい(自分が井上玲音をどうしてもアンジュルムに欲しかったのにはそういう理由もあったのですが...)。ただ、少なくとも現時点ではかつての船木や井上のようなメンバーが宙に浮いているわけではないことを考えると、研修生でよほど優秀なメンバーか(私は研修生はチェックしていないのでよくわかりません)、さもなければ、いっそのこと単独加入からの8人体制でも構わないと自分は思っています。とにかく、3期と7期でのケーススタディを一切踏まえずに事務所がまたぞろ同じことを繰り返さないことを祈るのみです。非凡人は一回の失敗で真理を学びますが、凡人は二回の失敗で両者に共通する構造を学びます。しかし二回失敗を繰り返しても構造を学べない者は、もはや凡人を通り越して愚鈍といっても差し支えはないでしょう。自分は事務所に「指導」も「寄り添い」も要求はしないし、もっと非凡な大将然と振舞ってくれ、などと無理なことは要求しません。ただ、うちの非凡な大将が無駄な苦労をしなくとも済む「構造」だけをお膳立てしてくれ、というのが、私が事務所に対して望む唯一のことです。

さて、だいぶ構造的な話に広がってしまったので、ぼちぼち個別具体的な話に戻ります。ハチ本人の「今後」の話です。繰り返しますが、今回の裁定が高度に政治的なものだとすれば、その内実がどんなものかは実のところ眉唾です。彼女が実際に何をしたのか、彼女とアンジュルムメンバーの現段階での関係性がどんなものなのかは、実のところどちらでも構わない、という話もしました。そして、同時にハチがハロプロに残るかどうかも実は眉唾であり、残るか残らないかも実はどちらでも構わない、と自分は思います。でも、唯一「どちらでも構わない」では済まされないことがある。

それは、彼女が本当に「今後もアイドルを続けたい」と思っているか、ということです。

その理由は二つです。一つめは言うまでもなく彼女のアイドルとしての資質。確かにパフォーマンスのスキルと、一般的な意味での社会的適応力は伊勢鈴蘭に劣るかもしれません。しかし、それを言ったら彼女と同い年だった頃の和田彩花が福田花音と比べてどうだったのか?という話になります。そしてハチの存在感とブログなどで発揮される言葉のセンスは、先輩も含めた他のアンジュルムメンバーの誰にも真似できないものがあります。この強烈な個性がステージ上から姿を消してしまうのは、あまりに惜しい。

そして二つめは、毎度お馴染み「大アンジュルム」の公共的使命という話です。いつの日かハチが「大アンジュルム」という大木を構成する見事な枝として一人立ちし、公衆の面前でアンジュルムメンバーと笑い合う姿を見せるというストーリーは、世に猖獗する「キャンセル・カルチャー」を「キャンセル」する絶好のスペクタルになるのではないか、と自分は考えているのです。もちろんそのためには年月を経てハチが十分に成熟した上で成功を収める必要があるし、仮にハチに悪感情を抱いているアンジュルムメンバーがいるとすれば、やはり年月の中で彼女たちもまた成熟し、感情のわだかまりが氷解している必要があるでしょう。そして既に多くの人々も論じている通り、ハチが成功する上で「ハロプロに留まる」という道は、実のところなかなか困難ではないかということは私も思います。だが一方で和田彩花や福田花音のようにハロの外で自ら「アイドル」としての道を切り開くには、彼女はまだ未熟すぎます。それなりに信頼できる人々によって守られる必要が出てくるでしょう。

それら全ての条件を踏まえた時、なかなかに針の穴を通すような道になるとは思います。しかし、アンジュルムというグループには既に一度同じようなことに成功している。それが、相川茉穂のケースです。相川が一度あのような形でアンジュルムの歴史から姿を消しそうになった時、同期の佐々木莉佳子がキーマンとなり、相川を「大アンジュルム」の一角に繋ぎとめました。その結果、一度は気まずくなった和田彩花と相川の関係性も時を経て修復され、ついに相川は堂々たる笑顔で「大アンジュルム」の集合写真に写るようになったわけです。無論、ハチのケースは相川のケースよりもハードルは高いと思います。しかし、ハチの同期である伊勢鈴蘭、そして再び佐々木莉佳子が、彼女に寄り添うコメントを残していることは大きな希望です。彼女たち二人が鎹となって、立派に成長したハチとアンジュルム本隊を再び結びつけるというシナリオは、無理にハチをグループに戻して活動を繋げるというシナリオよりも、はるかに「公共的」な意義の高いものになると思うのです。

と、夢物語を語ってはみましたが、全てはハチ本人の「アイドルを続けたい」という思いが「政治的決定」のお飾りなどではなく、本物であることが必須条件です。その点に関してはヲタクに出来ることは祈ることだけです。そしてまた、逆にヲタクがしてはいけないこと、というものもあります。それは、これまた伊勢鈴蘭の言う通り「誰かを責めること」です。彼女の言葉を一つ一つ熟考してみると、決して気休めとか誤魔化しではなく、真実であることがわかります。それはよく言われているように、「ヲタクが知り得る情報など限られているのだから決めつけで物を言ってはいけない」というだけの話ではありません。ここまで検証してきた通り、ありとあらゆる可能性を想定してみたところで、今回の件にかかわるメンバーについては誰一人責められるいわれはない。また事務所に関しても、責めるならもっと建設的な責め方をしたほうがいい。そして今回の場合、誰かを責めることはそのまま大アンジュルム全体の公共の安寧を脅かすリスクになりかねません。

それでもなお、何か腹に据えかねる思いがある人にとって、責めてもよい唯一の存在があるとすればーそれは、ヲタクです。

ここまで論じてきた通り、プロ極右であれハチ極左であれ、ヲタクは不確かな情報だけで公共哲学的にも生態学的にも間違った批判を繰り返し、しかも政治的にも不利な帰結を招き寄せてしまっている。つまりメンバーや事務所と異なり、ヲタクだけがあからさまにダメな存在なのです。さらにメンバーは事務所の言うことを聞くしかなく、事務所は今やヲタクの顔色をうかがうことが多い。考えてみればヲタクが金を落とさなければメンバーも事務所も食いっぱぐれるのですから、ヲタクはこの生態系ピラミッドにおける最強の存在なのです。先ほども述べましたが、よく物がわからない人はとりあえず一番強いものを叩いておくのが、公共的に正しい行為です。そしてまたヲタクは強い割にヘタレですから、叩かれれば割と簡単に逃げ出して地下に潜伏してしまう、攻撃のコスパ的にはうってつけの存在です。なのでプロ極右はとりあえずハチ極左を叩いておけばよいし、ハチ極左はプロ極右を叩いておけばよいと思います。そうやって地獄の底で取っ組み合いを続けている限りは、天上で進行する物語を妨げることにはなりません。これまた公共的に正しい行為です。

すなわちヲタクはアイドルや事務所を叩くことをやめ、ヲタク同士で叩き合うことを始めた時、初めて「無自覚なパブリック・エネミー」であることをやめ、その罪が贖われることになるのだと思います。そしてその後に何が起きるかについては、マタイ伝の記述に譲ることにしましょう。


そのとき、かみの子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、かみの子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。 

また、彼は大いなるラッパの音と共に天使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう


追記







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