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「大アンジュルム」は世界を覆う

少し前に「大アンジュルムマトリックス」というものを思いつきまして、そのうち詳しくnoteで論じようと思っていたのですが、手が空いている時にちょこちょこ手を加えているうちにまた色々と見えてくるものが出てきたので、ここらで予定通りnoteにまとめることにいたしました。

で、まず、「大アンジュルム」という概念について。これは既にこちらの記事で触れましたが、現在グループとして活動しているアンジュルムを「小アンジュルム」と捉え、現在各方面で活躍するアンジュルムOGも含めた新旧アンジュルムメンバーを「大アンジュルム」と捉える考え方です。自分がこの捉え方を好むのには、以下の三つの理由があります。


⑴いかにアンジュルムがメンバーの個性溢れるグループとは言え、「ハロプロのアイドルグループ」という制約のもとでは、メンバー全員が存分に個性を発揮した活動をするには限界がある。したがって本当に彼女たちの個性が炸裂する様を見届けるには、既に卒業してその制約から解放されたメンバーを追いかける必要がある。

⑵卒業したメンバーと現メンバーは、メンバー間の紐帯によって依然として結びつき、卒業したメンバーの活躍は現メンバーに影響を及ぼしている。したがって今後の現メンバーの方向性について、卒業したメンバーの動きを無視することはできない。

⑶卒業したメンバーの活躍領域は多岐なものにわたり始めており、それは現代日本の文化領域のかなりの部分をカバーしつつある。したがって「大アンジュルム」を理解することは、現代日本全体を理解することに繋がるはずである。


また、特に最近のコロナ禍の状況下においては、自分は「小アンジュルム」のみならず「大アンジュルム」の箱推し、とりわけその二大始祖である和田彩花と福田花音の「あやかのん両輪推し」を心がけているところがあるのですが、その背景には以下の六つの理由があります。


⑴「小アンジュルム」の現場が激減する中、和田彩花と福田花音は、その活動領域の利点を活かし、ステージ活動にとどまらない形で積極的な発信を続けている。

⑵両者の音楽的バックグラウンドには日本でも指折りの一流ミュージシャンが関わっており、彼女たちの発信する音楽のクオリティは場合によっては「小アンジュルム」よりも高いものである(また、和田本人の作詞世界、福田本人の歌唱力は、アンジュルム時代のそれに匹敵、もしくは凌駕するものになりつつある)

⑶彼女たちと活動を共にする人々、周囲で絡む人々には、山田社長、劔樹人、新井愛瞳、大森靖子、藍染カレン、香椎かてぃなど、アンジュルム時代と同じ、場合によってはそれ以上に魅力的で興味深い人物が多い。

⑷ヲタクは和田福田本人、及びこうした周囲の人々と、ハロプロ時代とは比べ物にならない低コストで十分に意義のある接触を行うことが可能である。

⑸彼女たちが進む道すがらに現れるキャラクターは(時に「敵キャラ」も含め)、いとうせいこう、Chim↑Pom、山内マリコ、ぱいぱいでか美、戦慄かなの、東海オンエアのYouTuberたちなど、今の日本の文化領域を満遍なくカバーする形で「キャラの立った」人々であることが多い。

⑹和田と福田はいずれも「嵐を呼ぶ女」と呼ぶに相応しい「主人公キャラ」であり、彼女たちが進む道すがらにはアンジュルム時代とは比較にならないほどダイナミックなドラマが巻き起こることが多く、物語として本当に飽きない。


そんなわけで「あやかのんの大冒険」は、「脚本良し、キャラ良し、演出良し、コンテンツパッケージ良し」の超優良コンテンツなのですが、それもまた「大アンジュルム」という大宇宙で起こる物語の一端でしかありません。そのくらい「大アンジュルム」で起きることの全ては相互に連動し、一時も目が離せないものがあります。そんなわけで、今回は「小アンジュルム」から視野を広げ、エキサイティングな「大アンジュルム」の見取り図づくりということで、まずは多岐に渡る「大アンジュルム」の活動領域を整理するために、縦軸に「保守的ジェンダーロール-進歩的ジェンダーロール」、横軸に「メジャー的-インディーズ的」という二つの軸をクロスさせたマトリックスを作り、「大アンジュルム」の主要メンバーをマッピングしてみることにしました。

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まず縦の「保守的ジェンダーロール-進歩的ジェンダーロール」の軸。これは彼女たちが何らかの活動を行っていくにあたって、保守的な「女性」としてのジェンダーロールを重視するか/しないか、という軸になります。そしてこの軸に関してはアンジュルムというグループの性質上、下半分の「進歩的ジェンダーロール」側に寄った「大アンジュルム」メンバーが大多数を占めます。ただし上半分の「保守的ジェンダーロール」側に寄っているメンバー(福田花音や田村芽実)も「保守的」ではあっても決して「受動的」ではなく、むしろ「保守的ジェンダーロール」を再帰的に選びとる積極性に溢れているという点は、極めて「アンジュルム」的であると思います(その辺りについては、こちらの記事でも書きました)。

次に横の「メジャー的-インディーズ的」の軸。これはざっくり言えば、大手の業界組織に属してプロデュースされるか/属さずにセルフプロデュースするか、の軸になります。文化的には左側には大衆的なポップミュージックが入り、右側にはよりマニアックなサブカルチャーないしハイカルチャーが来ることになる(ただし特にサブカルチャーに関しては大手業界組織がマーケティングの上で「右側」っぽいものをプロデュースすることもあるし、「プロデューサーは存在するが大手には属さない」というケースも多くあります。その意味では発信側の姿勢というよりは、むしろ受け手側の嗜好の問題の方が大きいと思います)。そしてアンジュルムはアップフロントという大手事務所に所属するアイドルグループということもあり、グループの重心は左の「メジャー」側に置かれているのですが、「大アンジュルム」全体のメンバー適性は左右両側に満遍なく散らばる形になっているのが非常に面白いところです。そして和田彩花や福田花音のように、「左側」に重心を置くグループ本体から卒業することで「右側」へと飛び出したメンバーもいれば、笠原桃奈や川村文乃のように、「右側」の属性を持ちながらグループに留まっているメンバーもいる。そしてそのようなメンバーを包含する辺りが、まさにアンジュルムの「多様性」ということになるのだと思います。

さて、この縦横の軸を組み合わせて四象限を作っていくと、まず最初に出来るのが左上の「ジェンダーロール保守的-メジャー的」の「古典的芸能界」の象限。自分はアップフロントという事務所の体質、つんく♂というプロデューサーの本質的はここだと思っています。ただ、本質はそうであっても21世紀の今日、時代の変化に合わせて、「左上」に収まりきれないものも作らざるを得ません。例えばアンジュルム関係に関しては、初期の「4スマ」は、つんく♂が「ジェンダーロール保守的-インディーズ的」という「右側」の象限にアピールするアイドルとして世に送り出そうとしたものではないか、と自分は睨んでいます。4スマが登場した00年代末というのは、ボーカロイドが人口に膾炙し、人によってはそれを「サード・サマー・オブ・ラヴ」というほど、「少女」的表象を全面に出したサブカル・ヲタク系インディーズ的電子音楽が隆盛を迎えた時期でありました(この波は二次元ではアニソン、ゲーム音楽から、三次元ではアイドルソングや中田ヤスタカ系列のものまで、非常に幅広いものでした)。そして、この時代の波を意識したつんく♂が選んだ最も「初音ミク的」なルックスと電波声の持ち主こそが、当時の和田彩花だったのではないか、と自分には思えてならないのです。

 しかし4スマが破綻した後、つんく♂は彼の本質である「古典的芸能界」の価値観に照らした上で、より「初音ミク」的ではない、「人間臭さ」のある新メンバーをスマイレージに加えます。それが二期です。「右側(インディーズ的)」価値観で選ばれていた一期に比べると、二期は圧倒的に「左側(メジャー)」的適性を持ったメンバーばかりなのです。和田彩花と福田花音がハイカルチャーとサブカルチャーの違いこそあれ、「普通の女の子があまり享受しない文化」を享受しているのに比べると、二期の四人が好きなものは何気に「普通」だったりします(田村芽実だけは例外ですが、彼女が好きなものも一昔前の「普通」だったりはするわけです)。また、二期を貫く浪花節的な泥臭いドラマトゥルギーも、「古典的芸能界」の価値観に親和的なものであります。そして「サード・サマー・オブ・ラヴ」的サブカル精神に溢れていた4スマ楽曲に比べると、6スマ楽曲は、より「左上(古典的芸能界)」的な歌謡曲風味の効いた曲も多くなった。つまり4スマが00年代末の文化を背景に生まれた「右上(サブカル的少女性)」のグループだったすれば、6スマは「右上」から「左上」を横断する「上半分」のグループに変貌したのではないか、と私は思うのです(下図参照)。

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しかし、少女たちは長ずるにつれ、プロデュース側の思惑を超えた個性を発揮していくことになります。まず、その本然が「右上」にあった福田花音とは異なり、いかにも「右上」的な、「初音ミク」的ルックスと声の持ち主であったはずの和田彩花は、ハイカルチャー志向と進歩的なジェンダー意識を身につけていくことになる。すなわちスマイレージリーダーの「右下(リベラル・ハイカルチャー)」化です。一方「左側」の二期では、本然が「左上」にある田村芽実と中西香菜と比べると、竹内朱莉と勝田里奈はより「下」志向が強い。このうち竹内の場合は、古典的芸能界と親和的なメンタリティーは持ち合わせているものの、パフォーマーとしての適性は決してそこにはない。一方、より徹底した合理主義者である勝田の場合は、そもそも性格からして「左上」的な理不尽さと相容れないものがあり、そのことが「省エネ」と呼ばれていた頃の彼女の反骨精神として現れていたようにも思えるのです。

一方、時代の方も10年代初頭から半ばにかけて変わりました。別記事でも書きましたが、安倍政権下の10年代日本では比較的「リベラル・コスパ」が良い唯一のイシューとしてジェンダー・イシューが噴出し、ポップ・カルチャーにおいても女性ファンが進歩的ジェンダー規範を反映したコンテンツを求めるようになる。これは主に女性若年層におけるK-POPの隆盛やSexy Zoneの台頭などに現れてきます。そしてつんく♂がメインプロデューサーを離れた2015年以降、こうした「ジェンダーロール進歩的-メジャー的」な「左下(現代ショービズ)」的なグループとしての役割を事務所に担わされたのが、スマイレージから改名したアンジュルムだったのだと思います。無論、事務所がそうした明確な戦略眼を持っていたわけではないような気はしますが(事実、再デビュー曲の「大器晩成」が現代ショービズ的名曲であったのに対し、カップリングの「乙女の逆襲」は、むしろ真逆の象限である「右上」的な色彩の強い曲です)、少なくとも結果的にはそうなった。そしてその時に決定的な役割を果たしたのが、三者三様の「下半分」の適性を備えた三期3人の存在だったように思えるのです。

まず室田瑞希と佐々木莉佳子。この二人は明らかに「左下(現代ショービズ)」的適性の高いメンバーです。室田のパフォーマンスは現代ショービズ的なダイナミズムにあふれるものであり、その「露出度の多さ」は、セクシャルなアピールというよりは、むしろジェンダーロールそのものからの解放を意味するようなところがある。そして、佐々木はルックス、パフォーマンス全てが「左下」の世界観を体現するような存在です。もっとも彼女はインディーズ・ロックやマイナー映画作品への偏愛など、その内面には「右」的な志向性、表現衝動を秘めてはいる。ただし、その生い立ちゆえの「メジャースター」たらねばというノブレス・オブリージュによって、そうした志向性を封印しているようなところがあると思います。一方室田は正真正銘の「左下」適性であり、他者(プロデューサー)によって「ネタ」を用意されてこそ活きる生粋のパフォーマーであるからこそ、己が最初から「ネタ」を用意しての発信はあまり得意ではないのではないか(だからブログも苦手だった?)、という気もしています。

次に相川茉穂。彼女は他の二人に比べればフェミニンなルックスを持ち、一見保守的なジェンダー規範の持ち主のようにも見えますが、その怪獣好きとハイカルチャー志向、ハイセンスな発信能力からも見られるように、和田彩花と同じ「右下(リベラル・ハイカルチャー)」ゾーンのメンバーであると考えるのが一番だと思います。つまり、「右上」から始まった4スマが、マトリックスの「左半分」を縦断する「二期の絆」によって「左バネ」が効いたのに続き、6スマはマトリックスの「下半分」を横断する「三期の絆」によって、一気に「下バネ」の効いた存在としてアンジュルムに生まれ変わったのではないか、ということです。

そしてこの「下バネ」移行は、グループ内のパワーバランスを激変させました。まず、今まではリーダーでありながらもグループの重心からズレた「不思議キャラ」だった和田彩花の発言力が増し、元々「左下」適性のあった竹内朱莉と勝田里奈は水を得た魚のように躍動を始める。一方、今やグループの重心と真逆の「右上」適性の持ち主となってしまった福田花音は早々とグループを卒業し(その後の「自分探し」にこそ少し時間はかかりましたが、あの時点での彼女の即断即決は物凄い英断だったと今になって思います)、「左上」適性の田村芽実も、より「古典的」な芸能の道へと旅立っていくことになりました(下図参照)。

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そしてインディーズ志向の福田の代わりに入ったのがアンジュルム最大級の「メジャー性」を持つ上國料萌衣、「左上」適性の田村の代わりに入ったのが「右下」適性の笠原桃奈という具合に、アンジュルムは次々にスマイレージ期の痕跡を洗い流すような補強を重ねていきます。ちなみに自分がアンジュルムに関心を持ったのが2016年の下半期、田村が抜けて笠原が入った頃ですが、その頃のアンジュルムは和田、(佐々木)、相川、笠原と「右下」適性メンが数を増し、グループ史上最も「右下バネ」が効いていた時期だったように感じています。この頃発売された楽曲も、純文学的懊悩が主題のインディーズロック「上手く言えない」と壮大な文明論的主題のEDM楽曲「愛進愛退」のカップリングという、アイドルグループとしては異例なまでに「右下」志向のもので、魂の置き所が「右下」にある自分としては、面白いアイドルグループが出てきたものだ、と思ったわけです。和田の発言から遡るに、彼女が己の未来とグループの未来を共にあるものとして夢を抱いていたのはおそらくはこの時期のことであり、逆に言えばそれはグループ全体の重心がこの時期に最も彼女の本然に漸近していたからではないか、ということも考えてしまうのです。

しかし、この「右下バネ」期は程なく終わりを告げます。理由は幾つか考えられますが、まずは貴重な「右下メン」だった相川茉穂の離脱、そして「右下重心」のアイドルというのは、アイドルビジネスとしての採算が採れにくいということ、また、もし仮に商業的な採算が採れる可能性があったとしても、元々「左上」重心のあの事務所に、真逆の象限である「右下」で戦うことを要求するのは厳しいのではないか、ということです。とりわけ2010年代という「リベラル・コスパ」が悪い時代にあっては、唯一「コスパ」の良いジェンダー・イシューに特化した「左下」だけがエンタメに残された道だったと言えます。こうしてアンジュルムは6期の加入とともに本格的な「左下」転回を始めます。その際、最も大きな役割を果たしたのは船木結でしょう。力強いパフォーマーとしての「左下」的素質と同時に、嗣永桃子仕込みの「ネタ」としての「左上」的素養、その内面に見え隠れする「右」的志向性が入り混じる彼女を、どこにマッピングすればよいかの判断には迷いました。しかし少なくともアンジュルム全体の本格的な「左下」転回を語る上で、彼女のパフォーマーとしての素質を無視することは出来ないと思い、()付きで「左下」にマッピングすることにした次第です(下図参照)。

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さて、このアンジュルムの本格的な「左下」転回は、この「10人体制」の成熟と商業的な成功とともに、やがて福田花音と田村芽実の離脱に続くアンジュルム第二の激動期を招くことになります。まずは「右下」適性メンであり続けたリーダー和田彩花の卒業であり、これについては今更多くを論じる必要はないと思います。そして同時に重要だったのが、田村芽実去りし後唯一の「左上」適性メンであった中西香菜の卒業だったと思います。これについては以前こちらの記事で論じたこともありますが、彼女の適性は「女優」なのではないか、ということは未だに自分は思っております。

さて、和田、中西(古くは福田、田村)の卒業と比較した時、純正の「左下」適性メンであるところの勝田里奈の卒業は全く異質です。基本的に「左」側の適性メンは、パフォーマーとして自らインディーズ的に発信することには向いていない。かといって勝田は田村とは異なり、パフォーマーとしての己の適性フィールドを「下」から「上」に変える必要もない。だとすれば、同じ適性フィールドでもっと己が納得できるスケールアップをしたいと思った時に、「プロデュースされる側」から「プロデュースする側」に回るという選択肢しかありえないことになります。だからこそ彼女は、「メジャー的」であることを維持すべく大手事務所であるアップフロントに残りつつ、「バックヤード」に回ったのではないか。そして文字通りの「裏番長」として、アンジュルムに影響力を行使する道を選んだのではないか、ということです。つまり、和田、中西、福田、田村とは異なり、彼女だけはグループの重心が置かれた「左下」ゾーンに向いていないから卒業したのではなく、誰よりもその適性があったからこそ、より「左下」の道を極めるために卒業したのではないか。

しかし、それに続いた室田瑞希の卒業、そして今後予定されている船木結の卒業についてはどうでしょうか? 自分はメンバーの卒業理由に関しては、そのメンバーが卒業後にどのような道に進んだかを見届けてからではないと無責任なことは言えない、と考えているので、まだ卒業後が見えない両者については何とも言えません。ただ、少なくとも船木に関しては先ほど述べた通り、彼女のパフォーマーとしての「左下」適性の内側に、「右(インディーズ)」志向の(それが「右上」なのか「右下」なのかはよくわからないのですが)表現衝動の存在をうっすらと感じることはあります。でも、室田に関しては本当にわからない。彼女は勝田里奈と同じく真正の「左下」メンであり、少なくとも今のアンジュルムは彼女の適性フィールドではあるように見える。かといって勝田のように、バックヤードに回ることでキャリアアップを図る、といったタイプのようにも見えない。だとすれば(彼女の言葉を真に受ければ、ですが)、同じ適性フィールドで異なった畑を模索するのかな、というぐらいのことしか推測できないわけです。とにかく、個人的には船木よりも室田が今後どこに顔を出すのかが、気になって仕方がない今日この頃であります。

ともあれ現時点で言えることは、室田瑞希に関しては例外としても、和田彩花、中西香菜という「左下」以外の適性を持つメンバーの卒業と、真正「左下」適性メンである勝田里奈のバックヤード化によって、2020年のアンジュルムはより「左下」志向のグループとして純化したということです。そして、そのことは今回の新曲(「限りあるMoment/ミラー・ミラー」)にははっきりと刻まれています。そして和田体制末期までは作詞者児玉雨子の個性を反映する形で、「46億年LOVE」や「恋はアッチャアッチャ」に残っていた「右下」の香りは今や完全に一掃されてしまいました。このことは「小アンジュルム」の中に限った話としては一見多様性の縮減を意味するかもしれません。しかし、「ハロプロのグループアイドル」というくびきから解き放たれた後の和田彩花(「右下」方向の表現・発信活動)、福田花音(ZOCという「右上」方向の最先端グループへの加入)、田村芽実(「左上」方向の本格的ミュージカル女優としての活躍)への進撃を見るにつけ、「大アンジュルム」全体としての多様性は、むしろ増す一方と言えるでしょう。そして少なくともファッション面では勝田里奈がバックヤードに回ったことで、アンジュルムというグループの自律性が以前よりも増したことは、彼女が笠原桃奈を『Baby's Breath』のカメラマンに起用したことなどからも明らかになりつつあります。

「多様性」という言葉はある種の「綺麗事」として論じられることが多いですが、実は集団としての重要な生存戦略でもあります。というのは、個体のレベルでも集団のレベルでも、それを取り巻く環境は常に変化を続けているからです。たとえば、少なくとも00年代末の段階では、グループアイドルにとって最も効果的な適応戦略は、「右上」適性を持つメンバーを集めることでありました。しかしつんく♂という人の底知れぬセンスは、「右上」ではなく「右下」適性を持つ和田彩花をスマイレージのリーダーに据えたのみならず、あまつさえ「真逆」である「左下」適性を持つ竹内朱莉と勝田里奈をもメンバーに加えたことでありました。そして10年代半ばになり、グループを取り巻く環境が変わった時、この時つんく♂が埋め込んだ「下バネ」は大きな意味を持つことになった。また、和田が己の「右下」適性を育くみ続けたことは、彼女が今後ソロアイドルとして末長く活動していく上で大きな武器になっていったように思えます。というのも「左下」適性のアイドルというのは、それこそ鞘師里保レベルの圧倒的なパフォーマンス力とブランドを備えていないと、ソロパフォーマーとして長らくやっていくのはなかなかに難しい。そう考えると、今は「左下」に特化したグループになってしまっている「小アンジュルム」内での多様性というのも、ある程度は維持しておいた方がいいのではないか、ということは思うわけです。一つは、今後また時代状況が大きく変わった時に、グループとしての生き残りに繋がるような「バネ」を効かせるという意味において。もう一つは、メンバーたちが今後末長く表現者として発信していく上での強みとして。

しかし、その辺りのことも所詮老婆心に終わるであろう、と自分は楽観視しています。というのは、実は勝田里奈と室田瑞希の卒業、そして少なくともパフォーマンスレベルでは「左下」適性を持つ船木結の卒業予定によって、真正の「左下」メンは竹内朱莉くらいしかいなくなってしまっている。残る佐々木莉佳子と笠原桃奈は前述の通りかなり「右下」に寄ったメンバーであり、後述しますが川村文乃は「右上」、上國料萌衣は「左上」に寄った適性を持っています。なお、伊勢鈴蘭と橋迫鈴、そして活動休止中の太田遥香に関してはまだ経験の浅い年少メンということもあり、マトリックス上にマッピングすることを保留しましたが、いずれも純正の「左下」メンとは到底思えない、何らかの形で「右側」に向かうベクトルを持ったメンバーのような気がしてなりません(ちなみに自分は伊勢鈴蘭については「強烈な右上フレーバーを持つ純正左下メン」なのではないかと思っております)。つまり、グループとしては「左下」に特化したグループになった「小アンジュルム」ではありますが、気がつくとこの数ヶ月で人数が減った割に、グループ内の属性エントロピーは実は拡大したのではないか、という印象があります。

アンジュルムの社会的意義とは、生存戦略としての多様性をどのように維持していくかを世の中に見せ続けていくことである、という話も別記事で論じました。「大アンジュルム」においては、本来ジェンダー観が大きく異なるはずの「左上」から「左下」を縦断する「2期」の絆があり、文化観が大きく異なるはずの「左下」から「右下」を横断する「3期の絆」がある。そして期が異なるメンバーの間においても、「りかみこ」「むろかむ」「かみかさ」など、マトリックス上で離れた場所にマッピングされる者同士の「凸凹コンビ」が売りになっています。大アンジュルムが多様性を維持しながら、マクロとミクロの変化の度にその多様性を駆使することで生き残りを果たしていく様は、ジェンダー観や文化観が異なる者同士がいがみ合う間にズブズブと沈没していく日本社会への大きなアンチテーゼになるはずである、という話も、常々論じております。去年後半から今年前半の激動期を経て、アンジュルムメンバー間の絆がさらに深まったという話は、こちらの記事でも語られている通りです。しかし、アンジュルムの「絆」とは決して「似通った者」同士の絆ではなく、「異なった者」同士の絆であるはずです。ここでこの記事の締めくくりとして、改めて「大アンジュルム」マトリックスを見ながら、今後の小アンジュルムの多様性を拡大させそうな三つの注目点について、挙げていきたいと思います。

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一つは、いわゆる「右下」のゾーン、最も和田彩花の薫陶を受けたメンバーである佐々木莉佳子と笠原桃奈の個性が、今後どう開花していくか。そして今現在の和田の活動が、この二人にどのような影響を及ぼしていくか、という話です。ただしこのゾーンは、「ハロプロのアイドル」という枠で発信する場合には「コスパ」が悪いこと、事務所にそのノウハウがないことという問題もあり、なかなか一朝一夕にわかりやすい結果が出るものではないと思います。しかし、時代が大きな曲がり角にきている以上、一年後には今とは全く異なる前提条件が現出していることも、ありえない話ではありません。その時のために、彼女たちが自分の刀を研いでおくことは、長い目で見れば決して無駄にはならないと思います。

次に「右上」のゾーン。全体的に偏差はあるとは言え、重心としては「左下」に寄っている現在のアンジュルムの中で、ただ一人真逆ゾーンの適性を持ち合わせ、その適性をじわじわと発揮し始めているメンバーがいます。それがサブリーダー川村文乃です。己の名を秘して少女写真を得意とする写真家花岡春菜に撮影してもらいに行った彼女の「インディーズ的」行動力(それはロコドル出身という彼女のバックグラウンドにも由来するのでしょう)、そして「好きな服を着る!」というアンジュルムの進歩的ジェンダーロールの理念を、「ガーリーな服を自覚的に選び取る」という形で再帰的に敷衍する彼女の哲学には、どこか既視感を感じます。そう、和田彩花と並ぶアンジュルムのもう一人の始祖福田花音です。佐々木莉佳子と笠原桃奈はアダムたる和田彩花の種子を継承し、使徒(アンジュ)となった。しかし川村は(福田とは一切活動時期が重ならないにもかかわらず)、リリスたる福田花音の種子を継承しているのではないか、と感じることが、最近とみに増えました。ちなみに福田は今は3期以降のアンジュルムメンバーとはほとんど絡みがない、という話をしていましたが、川村だけは福田のインスタ投稿にいいねをつけ続けています。最初は川村"有能"文乃の如才なさゆえかとも思っていたのですが、どうもそれだけではない気もする。つまり、この4スマとWACKアイドルを愛するアンジュルムのサブリーダーは、一切の社交辞令抜きで福田の美学に共感を示しているのではないか、という可能性です。そして、願わくばそうであれば、ことは一気に面白くなる、と思っています。

かつてのスマイレージは、「リーダーの志向性がグループの重心からずれていた」グループでありました(もし和田彩花がリーダーではなければ、彼女はとっくにいなくなっていたかもしれません)。そしてこのことは、スマイレージがアンジュルムに改名した時、強烈な「下バネ」として機能したわけです。だとすれば、同じことは川村文乃にも言えるのではないか。年功序列ではなく実力でサブリーダーの座を勝ち取った川村文乃は、おそらくアンジュルム史上最も強烈な存在感を発揮しているサブリーダーだと思います。そんな彼女が「アンジュルムの重心」から少しズレた適性を発揮し始めているということは、今後大きな環境の変化が起こった時に、アンジュルムというグループが激変後の環境に適応する上で、有益な「バネ」として機能するのではないか。そして、だとすればその適性を彼女が維持・アピールし続けるために、かつての和田彩花における「ビジュルム」や「乙女の絵画案内」に当たるコンテンツを、川村に与えるべきではないか、と自分は思います。そして和田のハイカルチャーに比べれば、川村の場合サブカルチャーにかかわるものになるでしょうから、その「コスパ」は悪くないのではないか、とも思うのです。

ちなみに次に環境の激変が起きるとすれば、それはアンジュルムに今更単なる「保守的ジェンダーロールへの先祖帰り(「上バネ」)」を要求するようなものにはならないだろう、と自分は考えています。起きるとすればそれは縦軸上ではなく横軸上で起きる。すなわち、「メジャー的」から「インディーズ的」への「右バネ」しか考えられません。というのは、この国の「メジャー」は、今やそうした変化を予測しうるほどの機能不全を起こしてしまっているからです。だからこそ自分は「右下」へ進撃する和田彩花と、「右上」へ進撃する福田花音を「両輪推し」するスタンスをとり、佐々木莉佳子と笠原桃奈、そして川村文乃を通して、始祖二人の「右バネ」が「小アンジュルム」に伝導することを期待しているわけです。とりわけ今回のコロナ禍は、10年代を通して劣化を続けたこの国の「メジャー」に決定的な打撃を与えることでしょう。その際、大規模な観客動員を前提とする「左下」は、とりわけ大きな打撃を受けるゾーンです。その時、むしろ今回のような危機の時こそフレキシブルに動くことのできる「右」ゾーン寄りの適性を持つメンバーは、己の適性を改めて磨き、それを世にアピールする好機になるのではないか。

ただし、それだけでは収まらないのが「大アンジュルム」ではあると思います。始祖二人のように「メジャー」のアンチテーゼとしての「インディーズ」を提示するのはなく、勝田里奈のように「左下」に突き抜け、機能不全を起こしている「メジャー」のバックヤードに入り込んでこれを「ハック」してしまうようなオプションすら「大アンジュルム」にはある。特に勝田が入り込んだのは、「左下」の中では今回のような危機に際しよりダメージを受けにくい「ファッション」「ビジュアル」の領域です。そして、そうした領域における「メジャーのハック」という意味では、さらに恐るべきポテンシャルを秘めたメンバーが「小アンジュルム」の中に存在します。

上國料萌衣は、今回の「大アンジュルムマトリックス」の最左端に位置するメンバーです。彼女は見方によっては「左上」適性の「昭和の女子高生」のようにも見えるし、「左下」適性の美人ハーフモデルのようにも見える。ジェンダーロールが保守的なのか進歩的なのかもよくわからない。ただひたすら、得体の知れない「メジャーさ」だけがそこにある。そして今、多くの業界人が彼女の「メジャーさ」の得体の知れなさに魅入られ始めているのか、それとも単に「事務所が頑張って」いるのかは分かりません。いずれにせよ今の上國料は、通常のハロメンとしては考えられないスケールでのメジャー進出を果たし始めている。しかし、その「メジャーさ」とは、所詮「人の世」が繰り出す「メジャーさ」でしかありません。どんなCMも広告も、彼女自身の持つナマの「メジャーさ」を掬い上げることに成功していない。「神の子」だけが備え持つ生粋の「メジャーさ」に追いつくことはできないのです。先日彼女の起用を発表したサイネージ・メディア「THE TOKYO SALON VISION COVER」の上記文言を試しにご覧ください。

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まるで形骸化した旧約末期のユダヤ教正統派、パリサイ人たちの戒律のような皮相な言葉で溢れかえった文章だと思います。これこそが、今の劣化した「メジャー」の正体です。愚かなパリサイ人たちは最初は「神の子」を祝福し、「自分磨きのヒントは何ですか?」と教えを乞い願うことでしょう。しかし、神の子がその質問に「ピーナッシ」と答えた時、愚かなパリサイ人たちは果たしてその極意を理解できるのでしょうか? 「神の子」がパリサイ人たちによって見出され、「メジャー」になるのではありません。そうではなく「神の子」は最初から「メジャー」なのであり、パリサイ人たちの方が「ピーナッシ」という言葉の中に、「神の子」の、ひいては「大アンジュルム」の「メジャーさ」を見出さなければならないのです。その時、パリサイ人たちの神殿は崩壊し、ついに「神の国」への道が開かれることになるでしょう。そして、所詮は人の子が決めたものに過ぎない「メジャー」という価値観は、サードインパクトの轟音とともに融解するはずです。いや、その時起こるのは、「メジャー」から「インディーズ」への単なる「右バネ」のような生易しいものではないかも知れません。何故ならば、「メジャー」も「インディーズ」も、所詮は人の子が作り出した鏡写しの概念に他ならないからです。そして「神の子」がそのことを見抜き、「鏡写し(ミラー・ミラー)になっていますね」との言葉を発した時、「大アンジュルム」は、天と地と万物を紡ぎ、相補性の巨大なうねりの中で、自らをエネルギーの疑縮体に変身させることで、必ずや「優しい愛の時代」の幕を開くことになるのだと、私は信じて疑いません。

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追記1

「大アンジュルム」と言いつつ田村芽実の話にあまり触れなかったので、別記事にまとめました。

追記2






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