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3年前の着物を使ったスロー稽古

Facebookを開いたら、3年前の今日の投稿が目に入ってきました。この投稿では、着物を使ったスローについて書いています。

そう、3年前のこの時の稽古が最後となったのでした。このあとコロナで休止となって、今年の1月末に再開されるまで、約3年の時間が流れたということになります。

原初舞踏稽古3回目。開くこと閉じること。サナギとなり羽化する。そのひとつひとつのプロセスが生死をかけたドラマのよう。本能的に衝動に身をゆだねて殻を破る。それはかすかな光、かすかな兆し、その直感を信じて飛び込む覚悟がいる。必死にならなければ通...

Posted by 大西 淳 on Sunday, March 15, 2020

2020年3月16日のFacebookの投稿

原初舞踏稽古3回目。開くこと閉じること。サナギとなり羽化する。そのひとつひとつのプロセスが生死をかけたドラマのよう。本能的に衝動に身をゆだねて殻を破る。それはかすかな光、かすかな兆し、その直感を信じて飛び込む覚悟がいる。必死にならなければ通り抜けられないところを通るということ。

その先に何があるかなんてもうどうでもいい。とにかくそこを通り抜けることに必死になって、身体の中ではじける小爆弾に、そのたびに身をのけぞらせながら、少しずつ少しずつ、祈る思いで身体を抜いていくのだ。永遠かと思うような時間の果てに、はらりと最後の袖が抜け落ち、さめざめと泣いた。

かすかな記憶。そう一度閉じて死んだのだった。それは遠い記憶の中にある。閉じて、閉じて、大事に、大事に、抱え込んで、小さく丸まって、存在を忘れてしまうくらいに遠く遠く、消えてしまうくらいに、固く閉ざして、そしてたしかに死んだのだった。すべてを死に委ねて、そこに消えたのだ。
抜けた腕はしばらく震えていた。しかししばらくすると肩甲骨がぐぐぐとしぼられ、卒倒しそうなくらいに身体がのけぞる。叫び出したくなるけどそれは声にならない。ただただ、そうしているうちに兆しが見えてくる。あそこに向かうのだ。この衝動に身を任せていけば、やがてあそこに至るはずだと思う。

原初舞踏、お稽古三回目は着物を使ったお稽古。着物と身体の間に空間がある。着物をまとうということの意味。布を広げ、それを引き寄せる時に空間も一緒に引き寄せる。引き寄せるほどに身体が濃くなっていく。じゅうぶん濃くなって、エネルギーで満たされたとき、サナギとなる準備が出来たのだった。

最初の床稽古では立ったあと、衝動を抑えきれず、少しだけ身体を動かす。そういう時はバリ的な身のこなしになる。そのようにたゆたうことがとても心地よい。軸を感じている。大地を感じている。動きの反作用としてのエネルギーの入り込みを感じている。それは風車のようだったかもしれない。身体は発電装置なのだね。

しかし、この時の着物を使ったスロー稽古で起こったことは今でもよく覚えていて、こうして文章で読むことで、さらにありありと細かいところまで蘇ってくるのです。

ここからさらに進んでいきたいと思っていたときの、いきなりのコロナ休止だったので、正直どこに向かえばいいのか、わからなくなった3年間だったとも言えるのだけれど、こうして新たに稽古が再開されてみると、やはりここに最も惹かれる要素があるんだなと思います。

この着物を使ったスロー稽古の中での感覚は、前回の扇子を使った稽古の中で起こったことでもそうだったように、なんというか、ほんとに本質的なことなのだと思うのです。

あのような空間が生まれ、あのような境地に立てるということが、奇跡的なことだと思うし、おそらくそこには持続の中に入っていくというような意識変容が起こるべき十分条件があったから、それが起こったのではないかと思います。

もっとも、これは僕の主観を通したものだということは理解しているけれど、あれは圧倒的な空間でしたし、あの場にいた人は皆感じたことだったと思うのです。そして、またあれを起こすために何をするべきなのか、どうすればあれが起こるのか、そのための大事なポイントが何なのか、それが少しずつ見えてきたということだと思います。

だから、再現が可能なところまで、方法として突き詰めてきたのが、原初舞踏の基本的な稽古であって、思えば、最上さんはそれをひとりでやってきたということなんだと思うと、本当にありがたいと思います。

そして、それが実際に機能し、実際にそれが起こるということを確認しつつ、さらに高めていこうとしているのが、今の定例稽古の場の意味なのだと思うのです。


三年前の着物を使ったスローの中で辿ったプロセスは、思えば人生を彷彿とさせますね。そういう意味では、この3年間の中で通ってきたことも、同じように意味のある時間だったと言えるのかも知れません。

なかなか脱げなかった着物がようやく脱げたときに、涙がこぼれたように、今もまた新たな段階に向けて、身をもだえながら進もうとしているという感じがあります。

ひとつひとつを片付けていかないと、前には進まないわけですが、最後の袖がはらりと抜けるときであるとか、倒そうとした扇子が最後の最後に倒れてコトンと音がするように、その時はやがて確実にやって来るのだと思います。

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