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自由に踊っていいときには金魚鉢の中の金魚みたいになってしまう

今日もまた、原初舞踏の稽古の中で思ったこと、気づいたことを書いておこうと思います。

どんなにアイデアを降ろそうとしてもすんなりとは降りてはこない。やるべきことを決めて、それを無心で繰り返しやっている時に、突然アイデアが降りてくるようなことは起こる。

自由に動く、自由に自分らしく踊ろうとすると、金魚鉢の中の金魚のように、際限なく退屈な踊りになってしまったりする。

それは本当に思いがけないところから、思いがけないタイミングでやってくるもので、計算して意図して生まれるものではないのだろうね。

また、思いっきり自由に、自分らしく踊ろうとしても、せいぜいが金魚鉢の金魚でしかないことに気がついて、がっかりしてしまったりもする。

だからこそ、何かが起こる時というのは、決められた振りを愚直に繰り返している時に、はたと隙間ができて、いきなりそこから風が吹き込んでくるように起こるものなんだろう。

その時に踊りは起こるのであって、意図的に起こすと言うことは簡単にできるものではない。

それは来るかもしれないし、来ないかもしれない。来ることを期待しすぎると来なかったりもするし、いきなり忘れた頃にやってきたりする。

バリにTaksuという言葉があって、これは踊る時にまれにやってる境地みたいなものなんだけど、あるバリの舞踏家がTaksuが来る時は最高に幸せだけど、それが来ない時は惨めだと言っていたことを思い出した。それと似ていることなのかも知れないなと思う。

たしかにこんな僕でも何度かは忘れられないような踊りを体験したことがあって、その時に起こったことは、今でも忘れられないのだけれど、それはやろうとしてもできないものなんだよね。いや、むしろやろうとして追いかければ追いかけるほどにできないのかもしれないと思う。

まさか、また踊りの稽古を始めるとは、一時期は考えられなかったけれど、自分自身の身体性にまつわる数々の記憶を遡るならば、それはやはり必然ということなのかもしれないなとも思う。

前回の定例稽古の中では、右手を上げ下げしながら、輪になって歩くという、最低限の決まりを設けてのフリーダンスの時間があった。

最小限の振り付けがあることで生まれる遊び、バリエーション。アイデアはどんどん湧いてきて、際限なくどこまでも広がっていった。

初めから自由であるとどうしてああも動けなくなるものだか。面白いものだと思う。

「自由に踊っていいときには金魚鉢の中の金魚みたいになってしまう」というのは最上さんの表現なんだけど、本当にそうだと思ったら、おかしくておかしくて、昨日から笑いが止まらない。

その遊びとバリエーションから生まれることの差異と反復が、だんだんと蓄積されていって濃度を増し、やがてはほとんど爆発しそうになっていた。

そして溜まるだけ溜まったら、本当に爆発して次の領域へのワープが可能になりそうだなと感じた。

振り付けによって自由を奪われたかと思いきや、そこに意識を集中して動き続けるうちに、いつのまにか扉が開いて、存在に触れるようなことが起こったんだろうと思い、昨日からずっとその時の余韻を反芻している感じ。

今になって、その時のことを振り返ってわかったことは、簡単な振り付けによって、大枠の道筋をあらかじめ決めておくことは、自由を奪うどころか、むしろ逆に、無限に通じる扉を開くことにつながるのだということ。

そういう意味では、テーマを決めるということも、ある種の振り付けみたいなものと思っていいのかもしれないなと思う。

テーマも振り付けかと思うと、なんかいろんなことをやってみたいなと思うから不思議だ。そのうち、絞られてくるんだろうからね。


そうそう、今朝目覚めた時に、踊るときに入っていく空間って、結局のところ「真実の地球」ってことなんだなと思ったということも記録しておこう。

昨日の原初舞踏の稽古はほんとうに魂震えたよ。

写真は何年か前の川瀬統心さんの勉強会の時のもの。

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