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「さわる」と「触れる」

昨日は原初舞踏の定例稽古でした。その中で、たくさんの書き残しておきたいことがあって、今もその余韻の中でドキドキしてる感じがあります。言葉にするのが躊躇われるほどにピュアなときめきがあったかなと思います。

稽古の中で「さわる」ことと「触れる」ことを体験していきました。

「さわる」ということと「触れる」ということと、どちらも対象に手を当てることではあるのだけれど、そこで経験することは、まったく違うものだったんです。

たとえば、茶碗に「さわる」ことで、その茶碗の表面の滑らかさや、きめ細かさや、温度や、重さを感じるわけです。あくまでも情報を得ていると言う感じですね。

しかし、「触れる」と意識した場合には、さらにその中に侵入していき、裏側を感じたりもしますし、こちらからだけでなく、あちらからも触れられているというような感覚がやってきたりもします。

まるで茶碗と一体化してしまうような、溶けてひとつになってしまうような感覚がして、うっとりしてしまいました。

次に布に「さわり」、さらにそのあとで布に「触れ」ました。

布に「さわる」ときには、やはり対象として布の表面を感じ、味わい、それを愛でる感じがしましたが、「触れる」意識になった時には、布そのものが命を持った存在のように感じ、それはそれは愛おしく感じました。

「触れる」ときには、対象化するのではなく、「なる」ということに近いのかもしれません。「さわる」時には対象であり、方向性は一方向でしかないけれど、「触れる」時には、双方向であり、そこにはたしかにコミュニケーションがあるような気もします。「触れる」ことは「触れられる」ことでもあるのかもしれません。

そして、その時ふっと頭に浮かんできたのは、「触れる」というのは、何か約束をするような、契りを結ぶような、そんな感覚になるということでした。

だから、「さわる」ことよりも、「触れる」ことの方が、簡単ではありませんし、覚悟がいりますし、それだけに深いと言えるのかもしれません。



そのような経験をしてから、今度は目で「さわる」ように見ながら、その場で回転をし、次に、目で「触れる」ように見ながらその場で回転をしました。

目で「さわる」ことを意識して回転をし始めた時には、見えるものを撫でていきながら、やはり情報を回収していると言うような感覚だったかもしれません。そこには明らかに分離がありましたね。

そのあと、目で「触れる」ということを意識して回転し始めた途端に、そこに見える物や人や壁や布や、全てのものとの交流が起こり、距離がなくなって全部と繋がっているという感覚になって、思わず泣きそうになりました。

距離がなくなり、分離がなくなり、すべてが繋がっていると言うように感じて、思わず、「うわー」って声をあげそうになりました。

そのくらい感動的だったのです。味わいながら、ゆっくりと回転しながら、その都度そこに見えてくるものとつながりながら、一周し終えた時には身体が喜びで満たされていました。

それは本当に幸せな経験でありました。ある人は「触れ」ながら回転し始めた途端に感極まったように泣き始めました。それを見ながら、またその感動が蘇ってきて、僕も目頭が熱くなりました。

あれは一体全体、何が起こったということなんでしょう。

最初の「さわり」ながらの回転と、「触れ」ながらの回転では、まったく違う空間を体験したということなのだと思うんですよね。

ヌーソロジーやカタカムナ的に考えれば、最初の回転は死返魂(マカルガエシノタマ)であり、「触れ」ながらの回転は生玉(イクタマ)ということが言えるかもしれません。

生玉はビビッドな魂空間ということが言えるかもしれません。だから、泣いてしまうような感動があったのかなとも思います。

そう言う意味では、これもまた空間が二重になっているということを実際に体験したということが言えるかもしれませんし、一種の一瞥体験的なインパクトがあったようにも思います。

最初の「さわる」時には、「わたし」がいて、「もの」があって、あくまでも「わたし」が「もの」を対象化していると言う感じですから、これは、「我-それ」の関係性なのかなと思ったりもします。

「触れる」時には「我-汝」の関係となり、そこには相互に向かい合うエネルギーの交流が生まれるからこそ、溶け合うような経験になるのかも知れません。



それはそれはとても大きな体験だったのですが、昨日の稽古はそれで終わりではなく、まだ続きます。

最後にやったことは、二人の人が向き合って立ち、お互いに「触れる」ような気持ちで相手を見ます。そして、ゆっくりと近づいていき、出会った時に軽く手と手を触れます。

それからすれ違い、反対側に着いたら、そこで180度まわって、また相手を見るという感じです。

この時、最初はちょっと怖かったんですね。人に「触れる」わけですから、いろんな思いが湧き上がってきました。過去のいろんな人間関係が頭をかすめもしました。

また、そんなふうに向き合ったとしたら、本当に好きになってしまったりとかしたらどうしようとか、拒絶されたり、嫌がられたらどうしようとか、そういうことがなんだか怖いと感じたりもしていました。

しかし、向き合って立ち、少しずつ前に進むにつれ、怖さはなくなり、ここで向き合えることがとても嬉しくなりました。

そして真ん中で手を触れた時に、それはほんとに一瞬だったんだけど、たしかに「触れた」と感じ、その感触が指先に残りました。

少しずつ離れていくときも、その指先の感触の余韻を感じていて、そこになんらかのエネルギーの線ができたような気がしていました。

そして再び向き合った時も、実を言うと、1日経った今現在でも、あの時触れた指先の余韻は残っています。

それは、何かとても大事な経験だったというような、そんな記憶として残っているんですね。

ざっと、ここまで書いてきました。とりあえず、昨日の稽古で起こったことを記録した感じですが、実際にはその余韻が今でも続いていて、何かとてもとても大事な経験をしたのだという実感が残っています。

そういう意味では、まだ全然整理できていなくて、今でも振り返りながら、思い出しながら、余韻を噛み締めている感じています。きっと、何か大事なものが内側で熟成されようとしているのかもしれません。

ああ、そう言えば、昨日の稽古ではもうひとつ書いておきたいことがありましたが、それは、また別の記事に書くことにします。長くなったので、今日はこのくらいで。

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