見出し画像

占いはある種の決意表明~石井ゆかりさんの「星占い的思考」を読んで

石井ゆかりさんの新刊「星占い的思考」について、あちらこちらで読まれた方が書かれた感想を見たもので、やはり読みたくなって購入しました。そして、パラパラと読み始めています。

占いはアリか、ナシか!

あちらこちらと飛ばし読みしていた時に、目に入ってきたのは、「占いはアリか、ナシか」という問いかけでした。

そこで、石井ゆかりさんは「ナシである」と言い切り、しかし占いはナシだからこそ存在していると返しておられます。

オカルトとはそういうものであり、隠すということがオカルトの意味であるからこそ、占いはある種の決意表明であるとも言っておられます。

社会の外側におかれ、隠され、場合によっては否定されているからこそ、成立するのが占いであり、ないことになっているからこそ、カーテンの裏側でひっそりと占い、隠されているからこそ、そこに真実を見いだせないかと人はやって来る。

占いはナシだからこそ、アリなのだとの展開は、この世界が見えるものだけでできているのではないのだということを、暗に含めて、むしろ強調して、占いがなければその受け皿がなくて困るでしょということが、本当は言いたいのだろうと、僕には聞こえてしまって、笑ってしまいました。

たしかにね。占いは12室案件ですから、表に出さず、裏でやるわけです。表には出せないことも、そこでは扱いますし、時にそれが真実の発見につながり、世界を変える可能性もあるわけです。

占い師と名乗ること

ここで、正直に打ち明けると、僕は「占い師」ですと名乗ることに対して、まだ抵抗があります。まだ覚悟が決まっていないということに正直にならないといけないと思いました。そのことに突然気がついたという感じです。

占いはアリか、ナシかと聞かれたら、僕にとってはまだアリとは言いきれないということだと思います。

キネシオロジーのセッションをメインとしてやっていた頃にも、いろんな情報を数字でピックアップして、その情報を読み解いたりしましたが、キネシオロジーでは筋反射を介して選択するので、それは「アリ」だったんですね。

キネシオロジーのセッションに、情報として占星術やタロットを組み入れるというのだったら、何の問題も感じないのです。

しかし、もし、それをタロットカードで出てきた情報を元に同じ事をやろうとしたら、やばいとなります。

いや、筋反射を使っていたときから、実はこれをカードで引いたとしても、サイコロで決めたとしても、結果は同じ事になるだろうということは知っていたのです。

意図の元に情報はピックアップされますから、カードでもいいし、サイコロでもいいし、直観的に浮かんできた数字を使っても良かったわけです。

キネシオロジーをやっていたときにはそう思っていたはずなのに、いざ、実際に筋反射を使わないで情報を取るという時には、これはヤバイことで、ヤクザな道で、踏み込むことにためらいを感じる自分がいることに気がついたのです。

まさに、僕自身、占いはナシであるという気持ちを、まだ持っているということを、石井ゆかりさんの本を読みながら、気がついたということですね。

あちゃーという感じです。

占いはある種の決意表明

これはやばいという感覚は、どこからくるのだろうと考えてみたら、科学的でないと言うことはそんなに問題ではないと思います。相手の許可を得ていないということが問題なのでもなさそうです。

やばさはどこからくるのかと、さらに考えていたら、出てきた答えは、それはあちら側に行って、戻って来れなくなるからという声がどこかから聞こえてきました。これは、けっこう近い線いってるのかも知れません。

そして、石井ゆかりさんが書かれているように、たしかに占いはある種の決意表明なのです。その決意を表明できなければ、占い師と名乗ることはできないのだと思います。

もしかしたら、40年前にインドのバラナシで経験したことと似ているかも知れません。入ったら戻って来れない穴に吸い込まれそうになって恐ろしかった夜のことを思い出しました。

その感覚とたしかに似ています。それは自分自身がソースであるということ、信頼に足る存在であるということ、そのことの確認なのかも知れません。決意表明とはそういうことなのでしょう。

奇しくも、このような問いかけを受け取り、思いがけず、考えてしまいました。そして、このことをずっと反芻しながら、これを書いています。

占いをアリと言い切る力

書きながら、少しずつ、意識の質が変ってきたような気がします。

占いがナシな理由は物質的な理由と言えるとしたら、ひとえに占いがアリと言いきれるかどうかは、魂としての自己に対する信頼があるかどうかなのだと思います。宇宙に対する信頼と言ってもいいかもしれません。

こればかりは思い込みでどうこうなるものではありませんから、丁寧に見つめる必要がありそうです。

そこができていたならば、たとえ裏街道であったとしても、そこを通らねば、絶対にたどり着けない領域があって、それこそが自分のやろうとしていることであるということが言えるでしょう。それが実感としてわかったとき、まさにそれこそが決意の表明できたときと言えるのかもしれません。

最後に

今日は、これを書き始めたときには、獅子座のことを書こうと思って書き始めたのですが、気がついたら、まったく違う方向に舵が切られてしまいました。

でも、これはこれでよかったと思います。とても大事なことですからね。

「占いはアリか、ナシか」

時々、このように自分に問うてみようと思います。そうすれば、試金石のように、リトマス試験紙のように、はっきりと今の自分が確認できるだろうと思います。

急がなくていいと思っています。少しずつ、味わいながら、気がついたら始まっていたというのでもいいのですからね。もしくは別の方向性に進むでもいいですしね。

このように向きあえているということが、大事なことだと思います。このまま、今まで通りにやろうと思うことをやっていく中で、何が起こるか、見ていきましょう。楽しみです。

この本については、また書こうと思います。獅子座のことも書きたいしね。でも、今日はこれでおしまいにします。(o^^o)

「星占い的思考」石井ゆかり著

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?