ゼロから立ち上がるということ
昨日、河原で歩行の稽古をしながら、あれやこれやと浮かんできて、それをツイートしていたんだけど、それに呼応するかのような最上さんのツイートを読みながら、それまで整理できていなかったことが、だんだん整理できてきました。
Twitterありがたいです。
今日も歩行のひとり稽古をしながら、繰り返すことでできてくる軸の変化を感じながら、これもまた一回更地から始めるということの意味だなと思ったりもします。
それまで、バリの踊りと田んぼでかなりしっかりした体幹を作って来れていたと思うのですが、この2年半ほどの間にいろんなものを失ってしまったということを感じていました。太りましたしね。(笑)
僕が長いことやっていたのは神への奉納舞としてのバリ舞踏だったので、そういう意味で踊ることが苦しくなってしまったということはたしかにあったんですよね。
曖昧な古い概念としての神という事や、社会システムに対しても、一度決別して見直さないといけないという段階に来ていたんだと思います。そういう意味では、2015年にヌーソロジーに出会えたことはほんとうにラッキーなことだったと思います。
そこで、ヌーソロジーを通して、歴史をはじめから見直し、何が起こってきたのか、そして今はどういう時期なのかということに関しての、全体像を見ることができるようになってきたということですね。
そして、その上で原初舞踏との出会いは自分の個人的な歴史において、とてつもなくエネルギーを注いできた踊りということに関しても、単に生きるということにおいても、もう一度意味を見いだすきっかけになった感じがします。
以下、最上さんのTwitterより
1月終わりくらいに、ヌーソロジー的要素を含んだ占星術をやりたいと言った結果、ハードルを自らあげてしまった感があり、占星術的な展開がすこし手間取っています。そんな簡単にヌーソロジー的な要素を入れ込むなんてできませんね。(笑)
でもおかげさまでいろいろ発掘作業をしながら、今までよりもヌーソロジー的な星に対する見方が身近になってきました。そして、結局の所、何がしたいのかということを今は見つめていますね。
特に、1月末から、ずっとお休みだった原初舞踏の稽古に参加できるようになったので、そちらからのインプットとか気づきがとても大きくて、自分自身の生きる軸を見直しているというような感じがします。
最上さんにしても、半田さんにしても、言葉に強度があるヒトというのは、やはりそれなりに理由があるんだということを今は感じています。
最上さんの「私の身体史」というアマゾンで販売されている本を再読しながら、そして映像作品である「コロス」の中で語られている言葉を書き起こしながら、その言葉の強度というものに、ほんとに圧倒される感覚がありました。
逆をいうと、その強度を持たないものが、何を語ったとしても、あまりにも軽すぎるのだということも感じたのですね。
というわけで、もうしばらく自分を掘り下げながら、歩行を通して、床稽古を通して、自分の軸を再構築していきたいと思っています。そういう意味ではとてもいい感じです。
ただ、外に向けて動き出すのは、もう少し先かな。とは言え、3月中には動き出したいと思ってはいるんですけどね。(o^^o)
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