見出し画像

回転の稽古

前回の稽古の最後のところで、初めて回転を取り入れた稽古をしました。最初は目を開けて、左回りにゆっくりと回転します。元の向きに戻ったら、今度は目を閉じて、また同じようにゆっくりと回転します。そして、また元の位置に戻ったら、再び目を開けて、同じようにゆっくりと回転します。

目を開けて回転したときには、見えてくる景色を次々と味わいながら、回っている感じがして、地球の自転ってこんな感じなんだなと思ったりもしました。地球は自転していますが、地球からは星が回っているように見えているというような事ですね。

そのあと、目を閉じて回転するときには、だんだんと回転していると言うことが不確かな感覚になってきました。一周回るというのも、どこで一周が終わるのかというのが、わからなくて感覚的に動いていたという感じでした。

今になって考えてみたら、目を閉じてしまうと視覚的には回転していると言うことがわからないということなのでしょう。

かろうじて、足で床に触れているということと、三半規管の影響とで、回転がわかるという感じだと思われます。それらの感覚が遮断されて、さらに視覚も遮断されたとしたら、回転していることは絶対にわからないはずだと思ったのです。

だから、目を閉じて回転すると、どれだけまわったのかがわからなくなり、場合によっては自分がどこにいるのかわからなくなるということなのだと思います。

ポイントとしては、触覚的には位置がわかるけれど、視覚的には位置がわからなくなると言うことかも知れません。

だから、再び目を開けて回転したときに、その位置がわからないという混乱した意識と、位置がわかっているという意識が同時に存在すると言うことが起こるのだと思います。

同時に存在するというのは、二つの空間を同時に経験していると言うことであり、それが内在の踊りを踊るためには必要なことだから、この稽古を考えたと最上さんはおっしゃっていました。

たしかに、そのあとのフリーでの踊りでは、最初から軽いトランス状態になっており、踊りに入りやすかったと思います。他の方の動きを見ていても、そのように感じました。

稽古のあと、つい気楽にヌーソロジーのキットカット実験に似ていると口にしてしまいましたが、その時にはちゃんと意味が理解できていなくて、整理もできていませんでした。

それもあって、最上さんからヌーソロジーの地図に頼りすぎるのは良くないと釘を刺されましたが、たしかに先に吟味するべきは構造ではなく、そこで起こったことに対する感性的なフィードバックだったと思います。

目を閉じて回転するときに感じた不安感であるとか、どこまでが一周なのかわからなくなってしまうと言うこととか、まずはその現場で起こったことを味わうところが大事なことであり、さらにはそこで味わった経験があったからこそ、そのあとのフリーダンスがあったのだという事ですね。

この回転の稽古については終わってから頭の中でリフレインさせながら、また家に帰ってきてから、何度も同じように回転してみて試していましたが、その結果、最初に書いたように、二重の空間を同時に感じるという事がポイントだったということが、意識的につながったのでした。

僕はいつもそうだけど、その場では言葉になかなかならないのです。時間が経ってから、ああ、そういうことだったかとつながる事が多いと思います。

そんな感じのことを考えていたときに、Twitterで半田さんがキットカット実験の事について触れておられたので、またこのタイミングの良さはなんだろうと思いながら見てみたのです。


そうしたら、そのときにわかったのは、この映像においては、キットカット缶の周りをカメラが公転しているようにも見えるし、キットカット缶がカメラの周りを公転しているようにも見えると言うことなんだと整理されてきました。

そしてその二つの公転はお互いに反転していて、別の空間なんだと言うことです。だから、ピンと来る人は、この動画を見て、二つの空間が重なって存在しているということが見えると言うことなのでしょう。

普通はどちらかひとつしか見えないわけです。でも立場が変わればたしかに二つの空間が同時に重なって存在しているということを示した動画という事になりますね。

そういう意味では、たしかに稽古の中で二つの空間を重ねたということとキットカット実験が示していたことは、表現は全く違うけれども、狙いは同じだったということなのだと思います。

ただ、キットカット実験の動画は、何を見ればいいのかがたしかにわかりにくいですし、僕もそのように見えるようになるまでに何年もかかったということだと思います。

また、いざというときには説明もできなかったわけですから、本当の意味ではまだわかっていなかったということかも知れません。

ふと、「光の箱船」という本にこのあたりのことが書いてあったなと思いだして開いてみたら、こんなわかりやすい図がありました。これと同じことなんですよね。

この図では、右手が左手を公転していると見えますが、一旦、右手に視点を固定すると、逆に左手が右手の周りを公転しているようにも見えるということです。

右手の回転と左の回転は反転していて、その二つは別の空間であるということなんです。普通はどちらか一方の回転しか見えませんが、ちょっと意識状態が変われば、両方を同時に見ることもできるということなのでしょう。

今回、特に大きな発見だったと思うのは、目を閉じて回転する場合、本当に方向がわからなくなってしまうと言うことでした。ゆっくり回ったので、足の角度などで、方向を推測するしかなかったわけで、そのような接触面さえなかったとしたら、まったく方向がわからなくなってしまったでしょう。

しかし、その場合でも、身体にとっての上下、左右、前後はありますから、身体にとっての位置と、三次元的な場としての位置は、まったく違う質を持っているのだという感じがします。

それが次元が違うと言うことの意味でもあるんでしょうね。空間は二つ重なってあるということです。

ひとつひとつ、こうして丁寧に理解していきたいと思います。

思形だけでもダメ、感性だけでもダメ、でもどちらも必要と言うことなんだと思います。

感性と思形を行ったり来たりしながら、それを等化する軸を見いだしていくというのが今の道筋なのでしょうね。

その先に人間を超えたなんらかの別のものの領域があるのでしょう。今回の回転に関する経験はとても大きなことだったと思います。

そして、もう一つの大きなことは、無底の内在空間に常にアクセスできるようになると、そこにはエネルギーが無限にあるから、いくらでも踊りは湧き出てくると言う最上さんの言葉でした。

過去の感情の蓄積であるとか、トラウマ的なものを踊りのエネルギーとして踊るのとは、全く違う世界がそこにはあると言うことだと思います。

実際、そこに向かうということこそが、人間にとってのフロンティアの発見につながるのではないかと思っています。(o^^o)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?