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われここにあり

今日は2週間ぶりの原初舞踏の稽古でした。

最後に自由に踊る時間がありました。最初はそのまま自分なりの感覚で踊りました。二手に分かれてそれぞれが踊った後、最上さんから、このような創作舞踏を始めるに当たって何が大事であるかという話を聞きました。

何よりもまず、何のためにそこにいるのか、自分は何者なのかを問わなければいけません。そして結局その答えは自分で探すしかないわけです。だから、踊り手は問いながら踊り、踊りながら答えを探すわけです。

この入り口をあいまいに始めてしまうと、最後まで、あいまいで中途半端な踊りになってしまうし、何をしているのかわからなくなるのです。

自分という存在を感じ、じゅうぶん準備出来たら一歩踏み出します。その時に「われはここにあり」と宣言します。社会的個としての私ではなく、そのような属性をすべて剥ぎ取っていって、最後に残った私として、「われはここにあり」ということで、僕は身体の密度が明らかに変わるのを感じました。

内側からの感覚として、とても密度が濃い空間の中を進んでいるようだと思いました。いくつもの衝動はありましたが、それまでのように、そのまま衝動に任せて動くのではなく、衝動のうちの95%は抑えて、それでも押し上げる5%だけが外に動きとして現われたというような感じでした。

そのため、一歩一歩がとても濃かったし、ひとつひとつの動きが重々しく厚みがあって意味を秘めていたと思います。

自分が動くことも稽古ですが、他の方が動くのを見るのも稽古です。これを見取り稽古と言いますが、他の方の動きが、先ほどとはまるで変わっていたことに驚きました。

また、「われここにあり」と宣言することがどれほど意味の深いことであるか、それはやってみたことがある人でないとわからないかも知れません。

一歩踏み出し、そこで感極まって泣かれた方がいらっしゃいました。「われここにあり」と宣言するときに起こることは人によって違うかも知れませんが、人によっては人生を変えてしまうくらいに大きな経験となることもあると言うことだと思います。

僕も「われここにあり」と言った後は、軽い動きがなくなりました。ひとつひとつの動きが丁寧に厳かに本当に意味がある場合にのみ動くようになり、明らかに軽薄さが消えたといえると思います。

人間は普段、いい加減なんだと思います。まぁ普段はそれでいいわけですが、そのいい加減のままではいい加減の踊りになるのだよと言うことだと思います。もし踊りのスタート地点に立つならば、「己の存在を問いなさい」ということだと思います。そうすることで魂に近づきますし、密度が変わります。それは空間が変質し始めるということでもあると思います。

そして、その場にしっかりと立てたら、それがたとえどんな自分であったとしても、そのままの自分である「われ」の存在を宣言することが、存在者として、目の前の持続空間に入っていくための心構えなのだと思います。

その覚悟なくして、踊ろうものなら、空虚な空気をただ掻き回すだけの徒労に終わるのだということを思いました。踊りとはかくも素晴らしいものでありながら、かくも恐ろしいものでもあるわけですね。すべてがさらけ出され、あばかれてしまいます。

それはおそらく持続空間に入るための最低限必要なルールなのではないかと思います。その先に存在の場がある訳です。「なる」の世界があるわけです。いい加減のままでは、たぶんそこには入れないのだということかも知れません。

今日学んだことは、とてつもなく大事なことだったと、今になって思い至り、震えんばかりです。ほんとうにすばらしい稽古でありました。ありがとうございます。

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