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伝統芸能におけるスローと原初舞踏におけるスロー、スローの意味とは?

先日来、YouTubeで見つけた地唄舞の武原はんさんという名人と謳われた踊り手の方の動画を見て、その動きに興味を覚えました。その動きがとてもゆっくりで、いわゆる原初舞踏で行なうスローの稽古を彷彿とさせる動きだったからです。

また扇子も使われていますし、最初は何気なく見ていたのですが、やがてこの動きをなぞって動いてみると、それはやはりスローで動いていますから、僕自身は独特の意識状態に入っていくのを感じました。

変性意識状態と言っていいと思うのですが、その時に起こることは時間が止まるということ、身体の中にアムリタが発生すること、空間が変容したようにそれまでと見え方が変わると言うようなことが起こります。

これは前回の原初舞踏の稽古でも起こったことですが、踊りが進むうちに、神々しい空間がそこにあらわれ、踊り手を見ているときも、自分が踊っているときも、どちらの場合にもその場の神々しさに共振して場自体が変化しているということを感じたわけです。

このような体験をしているときというのは、人によっては一瞥体験と呼ぶかも知れないような要素を持っていると思います。そのくらい圧倒的で、永遠の中の至福感に包まれ、身体はとても気持ちよいわけです。これについては、僕はインドでいうところのアムリタという現象と同じなんじゃないかと思っているのです。もっともあくまでもこれは僕の主観的な意見と言うことにはなりますが。。。

そういう前提が僕の中にあったもので、この武原さんがどのような感覚でどのような意識状態で踊っておられたのかと興味がありました。しかし、他のインタビューを見てみても、そのようなことは一切語られておらず、実際の踊りの映像を拝見しても、内側で何かが起こっているときに生じるはずのいろんな兆候が見えないので、もしかしたら僕が経験しているようなことは、感じておられないのかも知れないと思いました。

このことについて、最上さんがTwitterで書き込んでくださり、そこで少しやりとりをしたのがこれらの文章です。

最上さん  地唄舞と舞踏の動きは共通しているとは昔から言われています。私は日本の身体の基本にあるこのような粒子の細かい動きを、決まった段取りである型の世界から、思想的な財産として捉え直す必要を感じてきました。能の動きも。その意味では舞踏は伝統につながるものです。この話は長くなるのでいずれ。

僕  なぜスローによって変性意識に誘われるのか、それについての言及は今までなかったのかも知れませんね。
スーフィーの旋回などはそのような切り口で語られても、スローについては身体の巧みさに言及する人はいても、意識への影響はあまり語られてこなかった。とてもおもしろいです。

最上さん  スローが内在と関係しているという発想が伝統芸能にはないので、ただの芸道の問題になり、名人芸に回収されてしまう。元々はそうではなかったのかもしれませんが、継がれていくうちに内部を失ったのではないか。言語と思想の大切さはそこにあります。

僕  まさに、巫女と審神者、感性と思形ですね。その両方を満たしてこそ、彼岸に渡れるということ、もしくは他者の声が聞こえる位置に出られるということかと思いました。背筋がゾクゾクします。

最上さん  地唄舞を見ていると彼岸の入り口に立っているのに、中に入らないで引き返している感じですね(笑)。動きも結局は流れてしまって、彼岸を捉え損なっている。踊りには思想が必要と言って私は嫌われてきましたが(笑)

僕  たしかに原初舞踏の稽古の中で起こるようなことは、これらの地唄舞には見受けられないですね。
舞踏においても、カタとしてのスローであったり、衰弱体であったり、それらは引き金となるはずなのに、内発に点火できないで、何も起こらないままの舞踏があるというのと同じことなのかと思いました。

なるほどと思いました。たしかに武原さんの動きはスローであるし、見ている僕自身はそれに誘発されて変性意識に移行しそうになるわけですが、武原さん自身にそのような様子は見られないのです。

この中で最上さんのおっしゃる「スローが内在と関係しているという発想が伝統芸能にはないので、ただの芸道の問題になり、名人芸に回収されてしまう。元々はそうではなかったのかもしれませんが、継がれていくうちに内部を失ったのではないか。言語と思想の大切さはそこにあります。」というところ。

長く伝統的に受け継がれてきた文化であるけれど、長年月の間に失われた真髄のようなものがあるのではないかと言うことですね。それはおそらく巫女性に通じるような、変性意識に入っていくための手順というようなことが、踊りの所作として残されているはずであると言うことなのだと思います。しかし、それが型だけが残り、その意味も実際の使い方も失われてしまったのかも知れないということ。

これは感性のみが残り、本来あったはずのカタチが失われたという事になるわけです。ヌーソロジーで言うならば、偶数先手ということですね。感性だけが残ったというのは、偶数先手の人間の次元においてはしょうがないことであったと言えるのかも知れません。

思想、哲学は後手でやって来るのが人間の世界でありますから、スローが持つ本来の意味と目的が、あとから見いだされて、それがはっきりと認められたときには、それこそが型の持つ意味ということになるのだと思います。

その意味を取り戻し、感性の側にもう一度差し戻したときに、新たな次元が開くというようなことが起こるのではないか、そういうことを思ったのですね。

そういう意味では、今、原初舞踏が行なっている定例の稽古場でのチャレンジはとても意味のある実験場なのではないかと言うようなことを思います。

思形と感性が等化されることで、次元が上がりますから、それだけ人間はヒトへの進化の一歩を踏み出すことになるのかも知れません。感性だけでは次元を上がることができないということはとても大事なことだと思います。思形を見いだして、それらを等化するという姿勢が必要ということですね。

考えてみれば、今のスピリチュアルの世界では感性が優先なものがほとんどなのではないかという気がします。だからこそ、思形が大事だよ。それがないと本質には迫れないよということなのかなと思うんですよね。

というわけで、不可思議で、不確かな道程ではありますが、今やっていることが何かとても大事なことなのではないかと言うことを感じています。今、縁あって、このような体験を重ねる機会に恵まれているので、この際思う存分、楽しもうと思います。

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