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わたしと繋がれないのは「人の目を気にするから」


〜私のバイブル本から抜粋〜

「一体どう思われているのかしら」
「どんなふうに見られているのだろう」
「こんなことしたら笑われるだろうか」

他人の眼が気になるとき。

「みっともないまねだけはしないでおくれよ」
「親に恥をかかせる気か」

「世間様に後ろ指をさされるようなことだけは
しないでね」
「ちゃんとしなさい」

あなたに訴えかける声がします。

私たちは皆、
他人のまなざしの中で育ってきました。
生まれ落ちたとき、
母親か誰かに守られなければ
生き存えることはできなかったでしょう。

受け入れられることは「生」、
拒絶は「死」を意味するからです。

安全になることは
生命体にとっての至上命令でした。

ですから、
母親に受け入れられることを始まりとして、
常に「他人に認められたい」
「受け入れてほしい」と思ってきたのです。

逆に、
「拒絶されたら、
仲間はずれにされたらどうしよう」
という恐怖も嫌というほど味わってきたでしょう。

「特別にはなりたいが、皆から離れたくはない」
「つかず離れず群れていたい」
多くの人が
この言葉にうなずく想いを
持っているのではないでしょうか。

恥を感じることや恥ずかしいという気持ちが、
謙虚さから、魂の清さから出るときもあります。

自ずから
存在を大切にする心のあらわれとして
生じることがあります。

しかし、それが行き過ぎたり、
動機がズレたりするとき、
それはもう魂の清さでも何でもなく

「他人の眼にどう映るか」
「よく映りたい」
「低く見られるのは嫌だ、耐えられない」
というように際限なく動いてゆくのです。

虚栄──
見栄の欲望そのものになるのではないでしょうか。

ただの面子や世間体の問題に
なるのではないでしょうか。

私たちは誰もが、
「見せるための自分づくり」に
夢中になってきた過去を抱いています。

自分の人生の道を歩みながら
他人の眼にさらされることを気にして
道草をしてしまう。

自ら生きる自分ではなく
他人の眼に手綱をつかまれた馬のように
走り出したり、立ち止まったり、
そしてやがて自分の道を忘れてしまう。

       「祈りのみち」〜 by高橋佳子


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この部分を読むと
人間って切ないなぁ。。って思う。


みんな怖いんだよなぁ。。
怯えてるんだよね。



だから、外側に目を向けて
頑張るんだよなって思う。


わたしもそうだった🥲
それで、体まで潰してしまったんだよね😣

(今もまだ、外向いてしまう時があるから
  意識意識😅)


だけど
わたしが『私』の味方であることに気づくと


最強✨

わたしと繋がろう❣️

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