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黛灰の物語における師匠(野老山)とは何者だったのか?

※当記事は性質上、メタ的要素を多分に含んでおります。閲覧の際は十分ご注意ください。

黛灰を語るうえで欠かせない存在、それは野老山(ところやま)である。師匠、あるいは教授とも呼ばれている。
幼い黛にPCを与えた張本人であり、プログラミングをはじめ様々な知識を黛に授けたことから「師匠」と呼ばれ、慕われている存在であった。

それがなぜ、黛に違和感を抱かせ、リスナーと対立、挙句削除されるという旅路を辿ってしまったのだろうか。

前提として、黛灰は「リアル」(リスナーと同じ世界線)を生きており、2434systemに自身のアバターや精神を投影することによって、吸血鬼やエルフをはじめとした、それぞれのパラレルワールドを生きる住人たちと交流しているという認識でいた。
しかしながら、3D配信をきっかけに「自分は仮想の住人である」と強く認識をしてしまった。

ここでの認識の転換を簡単に図示してみたのがこちら。(誤りや異論があればぜひともご指摘お願いします)

黛について考える

なお、黛自身オフコラボは「クロスオーバーのようなもの」と発言している。(完全に余談であるが、ここで私は「その発言は自身をキャラクターとして扱っていることに他ならないじゃん」と思い震えた)
https://youtu.be/l8racLaARzU

上記の3D配信では野老山と思われる人物(結局2021/05/20の配信で野老山であることが正式に発覚したわけだ)が、「彼(hacker)を導き育てた私こそwizard(ハッカーを超える技術者)と呼ばれるに相応しい」「魔法を成し遂げよう 仮初(かれ)を産み落とす大いなる奇跡を」を大口をぶったたいている。

そう、野老山の目的は一貫して「”自分と同じように”黛灰という存在をバーチャルの世界からリアルの世界へ解き放ちたい」というものであった。彼は、それが黛灰の真の自由だと信じてやまないのだ。

野老山は自身もバーチャルであるにも関わらず、「バーチャルという不明瞭なもの」と断じている。これは、バーチャルは所詮仮想の世界であり、使用者や閲覧者という存在と言うべきか、現実(リアル)側から繋げてもらうのを待つしかない存在であることに起因するのだろう。

ともかく、仮想世界を抜け出せた(と思っている)野老山が説明するには、「私は2434systemの奥深くに入り込むことで2434systemを理解し、現実とは異なるものであると理解でき」「自分が仮想であるということに気づき、抜け出す選択を得ることができた」と述べている。

さしずめ、彼の説明した構図を図示するならこのようなかたちになるだろうか。

スライド2

しかし、大いなる誤算がそこにはあった。

野老山も、物語の装置としての一部だったのだ。

もっと平易な言い方をすると、上図で言うところの「黛灰の物語」の台本に登場する役者の一人に過ぎなかった

そのことを、野老山も自身がリスナーにどう見えていたかを客観視することで、まざまざと理解した。そう、顔も声もない、便宜上名前だけ与えられたモブであることを。
https://youtu.be/LI8v9g7w2Os?t=616

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個人的な所感ではあるが、野老山自身が「黛灰には意志なんて存在しない、架空の存在」「”中の人”やリスナーを始めとした様々な人間の意志が黛灰の物語をかたちづくっている」と語っていることから、自身も黛灰に関わっている以上完全にストーリーを脱しているとは言い難いはずなのに(そもそもバーチャルライバー以前の黛灰の意識は何によって制御されていたかの説明すら曖昧だ)、なぜ自身は物語の外側にいると信じて疑わなかったのか、甚だ疑問ではある。そう思い込んだことすら物語の進行として必要ならば、なかなかに救えない話だ。

また、野老山の存在について、リスナー視点からも不可解な部分があった。いくつか挙げるとするならば、
野老山の肉体も現実に存在している、という旨の言及がない
どのような手順を踏んで現実世界に解き放たれたのか、具体的な説明がない
などだろうか。
リスナーの意志を動かすのであれば詳細な説明があって然るべきものを省いてしまったのは、はたして野老山の怠慢か、”台本”に記載されていなかったからか

この点から見ても、やはり野老山は「リスナーに問いかけ、黛灰の物語をエンターテイメントたらしめる存在」としての機能しか有していないことが窺える。

サムネイルのトンネルは野老山の末路、すなわち”敷かれたレールの上”を暗示していたのかもしれない。


……しかし、ここではた、と立ち返る。

敢えて乱暴な言い方をするが、そもそも我々リスナーは「黛も野老山も架空のキャラクターに過ぎない」ということに、最初から気づいて見て見ぬふりをしていたのではないか?
ともすれば、中の人(物語の作者)>(黛は現実に存在しないと気づいている)リスナー≧(黛は現実に存在すると思っていたい)リスナー>野老山>黛、という何層にもなるメタ視の構造(レイヤード)がそこにはあるはずだ。

実施されたアンケートで、選択肢を「選んだ」つもりでいて、あらかじめ提示された選択肢を「選ばされて」いなかっただろうか?(ここでは「選択しない」ことも選択肢の一つと考える)
リスナーもまた、黛の物語に組み込まれた舞台装置の一つに過ぎないのだろうと私は考えている。

少なくとも黛灰を土台としてVTuberを語るならば、VTuberとリスナーの関わり方は上記のような構造になっていると言えるだろう。

リスナーも、野老山より一つ上のレイヤードで、きっと”敷かれたレールの上”のトロッコに乗り続ける。


追記

画像3

若干見えづらいが、3D配信の「単眼」を彷彿とさせる。
この単眼のみならず、野老山が消える前に放った「キミたちだけがカレをみてあげられる」という言葉も、3D配信の「ボクだけがカレをみてあげられる」と対比されている。

幸い、リスナーは大勢いる。同業ライバーも含めると多数の目が存在している。黛へ向かう眼差しは「ボクだけ」ではなく、「キミたち」であるところに希望をかけたい。
あるいは、2434system(内側)からの眼差しと現実(外側)からの眼差しを取り戻す物語が始まるのかもしれない。



お借りしたカバー画像

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