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本地垂迹を想う

僕は宗教学を学んだ訳ではないので、「本地垂迹説」の深い意味は知らないのだが、こんな風にとらえている。


カウンセリングの世界もそうなのだが、精神分析の道、認知心理学からの道、人間性心理学からの道など様々な流派がある。


それぞれの道から登りつつも、お互いの道を理解しながら、共通点や違いを見いだしながらも、一つの道を歩きながらも排他せずに、なんとか自分の力にしようともする。


多分、その際やっているのが、宗教界で言う本地垂迹なのだろう。


皆、神様なり仏様なのだから生まれた場所でつけられた名前が違うだけなのだろう。名前が違うけど、共通してるじゃない。世界中で広がっている名前を本地として、私達の世界が呼んでいる神様はその生まれ変わりなんだろう。


外の世界と自分の世界の共通点を見つけ、同じものだろうとする。尊いものは、皆、尊く、感じられたことは感じられたのだと。


平田篤胤の国学は、自分の世界にこだわった。私達の神は、他の神は違うし、一際高い位置に居るのだ。万系一世がそれを証明している。だから、我が国は神の国だと。


それは、成長段階の児童に似ているように感じる。自分にこだわれるからアィデンティテイの成長も成し遂げられるのだろう。


ただ、それは大人の世界ではない。他者と共に生きられる世界ではない。


本地垂迹の考えを否定し、自分にだけこだわるから、靖国神社では英霊を選別をする。


楠木正成は英霊となるが足利尊氏は排斥される。人切以蔵は祀られるが西郷隆盛は英霊には成れない。


人を区別し差別する思想が靖国神社を形にした。仏教以前の神道にもなかった発想が明治から始まる。


今の世にありふれているイジメとは、実はこの区別し差別する思想が作り出しているのではとさえ思う。


つまりはわが国を強国へ戦争へと押し出した原動力なのだろう。


「本地垂迹」とは、漢字で書き音読みの何か難しそうな言葉だが、仏教も神も『なぁ~んだ同じなんだよね、生まれた所ではそう呼んでたんだ。』とイメージしたんだよね。


世界は平等に繋がれると。

共に生きていく知恵だったのではと。


実はキリスト教が入ってきた戦国時代、伴天連達はキリストを「大日様」と呼んでいたそうです。


人は知っている=既知のものを頼りに世界を造り上げる。伴天連達は一神教なので大日以外は排除されるんでしょうが、大日は本地垂迹だったようです。


本地だろうと垂迹だろうと、目の前から感じる何かが大切なので、名前にこだわることもないような気がするのです。(自分で付けてもいいし・・たぶんそれがホントの名前かも。)


先祖たちは、そうやって受け入れたのではないかと思うのです。違ったもの、敵ではないと。


「本地垂迹」って一つの知恵なんですよね。

一緒になるための、つながれるための。

でないと、中国王朝のように潰しあわないといけなかった。

これもこの島国の知恵なんですよね。

だから万系一世になったのだと。(平田胤篤には皮肉だろうけど

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