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数字に色がついて見えた(いもうと)

あねのねんど作品がどんどん進化してるな。絶妙な混ぜ具合。

確かに私には、言葉の選び方や綴り方対して「好き」と「好きじゃない」のはっきりとしたこだわりがあると思う。「好きじゃない」ものには、ちょっとムッとしてしまうくらいの。だから何度挑戦してもどうしても読めない作家もいる。全くもって私の個人的感覚で申し訳ないけれど。情景か…そういうのは、あるんだろうか。あるのかもしれない。

あったあった、「共感覚」。私には、数字に色と性別と性格がありました。
奇数は男子、偶数は女子。
1は赤、小柄ですばしこい少年。
2は水色、穏やかで優しげなショートカットの女の子。
3は黄色、格好つけたがりの、でも自分は幼いとわかっている、少し泣き虫の少年。
4はピンク、まっすぐな髪の毛にリボンを結んでスカートと三つ折りの靴下(時代を感じるな)女の子らしい女の子。
5は青、おおらかで誰にでも好かれる、クラスの中心にいるような少年。
6はオレンジ、いつも笑顔で気さくな女の子。
7は黄緑、気取り屋でナルシスト。7のことは嫌いだった。
8は紫、少しお姉さんで、ちゃんと話を聞いてくれる人。
9は黒、落ち着いてメガネをかけた、本が好きなお兄さん。
0は透明。性別はなく、少し遠くにいる、透明な人。

セーラーマーキューリーを初めてみたときにはなんて数字の2のような女の子だろう!と思ったし、五味太郎さんのサイン会に行ったときは5!納得!まさに5!と思った。でも何より感動したのは、丸の内オアゾの丸善の前で、谷川俊太郎さんとすれ違ったとき。ああ、ほんとうに0みたいな人がいた、と思った。

でも数字にイメージがあるからといって、長い数字が覚えられる訳でもないし、特に便利なことはなかったね…。むしろ数字が隣り合うと会話をするので気になっていた。「37」はどっちが格好いいか張り合ってるな、とか。「19」は1が逃げそうなのを9が捕まえているけど、「91」だと手を繋いでるから安心するな…とか。好きな並びと嫌いな並びもあって、算数の計算結果が嫌いな並びだった場合、わ、やだな、って思って書いていた。

でもどんどんそんなイメージは無くなって、今はもう、そういう感覚があったことを覚えているだけ。どんな数字が並んでも何とも思わないし、会話も聞こえない。

この本の彼のことは少しだけわかる。読み返すたびにわくわくする。こんなにすごい感覚じゃなかったけれど。世界は見る人によって違うように見えるし、聞く人によっても違うね。数字に色があった頃の世界をもう少し覚えておきたかった。

江國香織さんは大好きだけど、私の2はこういう性格じゃないんだよな…。文字で物語ることの自由さを感じる。人間のようで人間ではないのか、帽子ときゅうりと数字の2が暮らす物語。


それから、いい子のこと。そうか、トットちゃんにはトットちゃんの苦しみがあるんだよね。
机にじっと座っていることができなかった子にも、授業が自分の理解を超えてどんどん進んでいくことに戸惑っていた子にも、楽しいことを追求していったら人に迷惑をかけたり自分が傷ついたりした子にも、それぞれに苦しみがあったんだよね。
当然なんだ。どっちの方がいい、じゃないんだ。
どうしてそんな当然のことに気づかずにみんなは好き勝手してていいよなあなんて、随分と思い上がったことを考えていたんだろう。猛烈に恥ずかしいです、いま。


働いていた本屋には子どもたちもたくさん来た。きっと生まれて初めて広い広い本屋に入ったのだろう修学旅行生や、学校をサボってふらりと来てみたのだろう高校生。漫画の発売日、うきうきして学校からの帰り道に立ち寄った子。
私はレジでカバーをかけながら何買ったのかな、文庫本や漫画のタイトルを見て、あ、これ読むんだな、あれは好きかな、って思っていた。中学生の男の子だとそっと大人な本をサンドイッチにしてくるんだよ……黙認したけど。あの店の扉を開く人は、買っても買わなくても、みんな本が必要だった。本に出会える場を、私も用意していたのだね。
トットちゃんと校長先生のように、親と子どものように、子育てに深く深く関わることはないかもしれないけれど、通りすがりの大人にはなれるね。


私ひとつやってみたいことがあるの。「乗り物などでぐずるお子さんにシールを渡す」こと。聞いた話ですが、てきめんらしい。喜んでもらえるらしい。甥たちはどう?シール好き?
とんでもないところに貼っても親御さんが困らないように、マスキングテープ素材のシールをいつも手帳に挟んで用意しています。しかし電車も飛行機も久しく乗る予定がないので、今のところ、まったく出番がありません。


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