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言葉は時に強すぎる(あね)

いもうとへ

ご無沙汰しております。北海道にも昨今は梅雨があるようですね。まだ梅雨前線はこちらにあるのでしょうが、昨日今日と雨は降り止まっています。雨といえば、4歳の次男が、「雨よんだ?」と聞くのですが、雨止んだ?の言い間違いです。雨よんだ?って、なんだかステキだから、直さないでいます。

さて、あなたの告白に胸を打たれました。寂しかったんだ、というあなたの気づきを教えてくれてありがとう。寂しかったよね。あなたはよい子だった。大人にとってのよい子。大人しくて、賢くて、手がかからない。あなたのだんなさんや猫が、そんなあなたの置き忘れてきた感情を、丸ごと受け止めてくれて本当によかった。そこがまたスタートになるのだと、人生はそんな瞬間が幾度かあるのだと、改めてちちの言葉を思います。

苦しみや悲しみの気持ちを発信することは、勇気のいることだけれど、とても大切なことなのだと思っています。親しい人に話すこと、カウンセリングを受けることの効は語るまでもないけれど、例えばこんなふうにsnsを使って発信することは、知らない誰かを助けるかもしれない、そんなふうに思います。

自己肯定感という言葉が私も嫌になりました。肯定、という言葉のもつ、「認めます、それは○です。」という断定する意味を、自分という人にくっつけることに違和感がある。あなたが思う、どうせ碌な人間じゃないし…に近い、私は三男を守れなかったし…みたいなことが出てきてしまうのです。

言葉は、時に強すぎることがあり、特に断定的な言葉は、人を傷つけることがある、と思っています。

例えば。字を書くのが苦手だと仰る知り合いの方が、その方は人間的にとても素晴らしいのだけれど、マナー講習会に参加した時に聞いた「字は人を表すのです。」という言葉に、人知れず傷ついたのだそうです。

それから、特別支援学校に長く勤務している先生が、この方もとても温かくて素敵な方なのだけれど、管理職の「これからはパソコンの使えない人は使い物になりません。」という発言に恐怖を覚えたと言っていました。若い先生にペコペコして聞きに行っている自分のことだと。

私もあるのよ。「子どもの健康と成長が親として一番の喜びですね。」と言われた時、悲しかった。亡くなった三男は、何も悪くないのですよ、と思った。健康と命を失った我が子と、その母親である私の喜びは、では何なのでしょうと。

でも、誰もそこで逆上したり腹を立てたりはしませんでした。相手に悪意が無いことはわかっているからです。ただ相手の信じるものが、自分のそれでは無かったのだと知るだけで、そして少し悲しいのです。

自分の発する言葉は誰かを傷つけるかもしれないと、知っていようと思います。でもだからといって口をつぐんではいけない。発信し、それを誰かに受け止めてもらい、そしてそこで生まれた差異に気付いたのなら、できることならそれを共有したいと今は思います。悲しんで、いじけているのではなく、可能な範囲で相手にそれを伝えたいと思うのです。

この世に完全なる悪も善も無く、ただ人の感じる心があるだけなのだと思う。自然の掟に逆らうことはできないのだから、今ある生を、感じる心を共有し合うことが生きていることなのだと思っています。この瞬間もたくさんの恩恵を受けて私は生きている。

自己肯定感はもたなくてもいいよ。つらいときに、受け止めてくれる誰かがいるよ、っていうことを知っていればいい。わたしには誰もいないよ、って言う人がいたら、それを教えてくれたことが、もうスタートなんだよ、って言いたい。これも断定はできないけれど、私はそう思うんだ。


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