ヘアドネーションをした話(いもうと)
あねへ
今日は7月12日、父の誕生日です。生きていたら75歳になりました。
末の弟が歩き出す頃には白髪も増えて、「おじいさんですか?」と祖父と孫に間違われてショックを受けたりしていましたが、ほんとうのおじいさんになった暁にはさぞ孫をかわいがっただろうに、生き急いで会えずに逝ってしまったのは、勿体ないことでした。大体、不摂生が過ぎたのです。
どんなおじいさんになっただろう、と思います。
どんなことを考えているだろう、と思います。
あねの手紙「言葉はときに強すぎる」。
本当にそうだと思いました。
予報外れの突然の雨みたいに、なんの身構えもしていないときに、不意に降りかかる。ただ濡れただけ、耳に入っただけと割り切ってもいいのに、そうはできないほど、心のいちばん奥をどん、と揺らす。
大人はその動揺を隠すのが少しばかり上手になっただけで、案外デリケートだったんだと、年を重ねるごとに思います。
私もそういうふうに傷ついたことがあるし、無自覚に傷つけたことがある。誰しもがそうであるように。
傷つくことも傷つけることも避けては生きていけない。私たちはひとりで生きているのではないのだから。けれど傷を癒すことはむずかしくても、いたわることはできるのだから。
話は全く変わりますが、先日久々に髪の毛を切りました。
31センチ切って、この団体へ送りました。
頭髪に悩みを抱える18歳以下の子どもたちに、無償でウィッグを提供しているのだそうです。
ヘアドネーションという言葉も活動も知ってはいましたが、31センチ伸ばそうと思ったのは、あの日、治療をがんばる、髪の毛のないあの子の写真をもらった日でした。
でも私自身は何の努力も苦労もしていません。毛母細胞が頑張るに任せていただけで、髪の毛はもそもそと伸びていきました。前髪も後ろに向かって全部引っ詰めて、毛束をぐりぐりとねじってピンで止めたお団子はどんどん大きくなっていきました。
生きているんだな、と思いました。私の意思とは関係なく、体はただ、伸びようとし、生きようとするんだな、と思いました。いっとき呼吸を止めることはできても、心臓が揺れるのを止めることはできない。考えないように努めることはできても、脳は動き続けている。手足の筋肉をコントロールできても、胃腸に消化吸収を止めるようにいうことはできない。その細胞、増やさなくていいんだよということは、できない。
それでも体は生きることをやめない。その終わりまで。
髪を伸ばしただけで、ウィッグについてはお任せするばかりだし、私が何をしたというわけではないけれど……それでも何かのお役に立てたらいい、と思ってる。
切った毛束は思いの外柔らかくふわふわとしていた。いってらっしゃい。誰かの小さな頭を守れますようにと願っているよ。
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