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しつけ糸(あね)

いもうとへ

ご無沙汰しておりましてごめんなさいね。

びっくりしました。日日是好日、わたしも最近観たばかりです。それにしても黒木華さんのあなたにそっくりなこと…初めて彼女を見た時は衝撃だったよね、あなたこそきっと。

お茶の作法のように、所作が美しいひとには憧れます。考えず、染み込んでゆくものなのでしょう。お茶には禅の教えがあると聞きました。日日是好日、も禅の言葉の一つです。禅の教えは、子どもを失ったわたしの心に響きます。

ところで、所作-身のこなし-が美しいと書く、躾(しつけ)、という字があるよね。この漢字は日本で生まれたいわゆる国字なのだそうです。ちょっと気になったので、この字について調べてみました。

このサイトにとても面白いことが書かれていたので引用させていただきます。

https://www.kgk-net.com/blog/2009/06/11/%E2%80%9C%E3%81%97%E3%81%A4%E3%81%91%E2%80%9D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AE%E3%82%82%E3%81%A4%E6%B7%B1%E3%81%84%E6%84%8F%E5%91%B3/

岡本夏木先生(元京都大学・京都女子大学教授)は、幼児の言葉の発達の研究者として知られています。ご高齢になられましたが、今なお先生の著作の数々はいささかも説得力を失っておらず、言葉の発達に関心をもつ多くの人々に読まれています。
その岡本先生の著作に、「しつけ」について書かれている興味深い文章がありました。「しつけ」という言葉は、もともと「着物を仕付ける」ということに結びついて成り立ってきた言葉であることを受け、「しつけ」という言葉の本質について言及されたものでした。幼児や小学生をもつおかあさん方に参考にしていただける話だと思いますので、ご紹介してみましょう。
 先生は、「『躾』という字がもたらす意味よりも、この『着物の仕付け』を背景とする意味のほうが、子どもをしつける過程の本質をよく表しているのではないか」と述べておられます。ご存知のように、「仕付け」とは、着物の形が整うよう、仮に縫いつけておくことを言いますが、そこで大切なことは、着物がやがて縫いあがると、仕付けの糸がはずされるということです。着物の完成をもって、もはや仕付けの糸はそこにあってはいけないものになるのです。
 以下は、岡本先生の著述からの引用です。
 (省略)五歳から七歳の子どもたちは、いよいよしつけ糸をはずしはじめる年齢にあたります。それまでは親が外側から枠組みを与えて、子どもに行為や生活習慣をかたちづくらせていたのですが、いよいよその枠をはずして、子どもが自分の力でみずからの行為や生活習慣を生み出しはじめる時期に入っていきます。
 しつけ糸をはずすことは、いうまでもなく、子どもを本人の自律にゆだねることです。しつけとは、もともと自律に向けてのしつけなのです。外からの強制によって社会のきまりをあてがうことよりも、むしろそうした外的強制をとりはずすことをめざすものです。しつけが不要になるようにしつける、といってよいかもしれません。 
このようにのべてきますと、私のいう「しつけ」は、読者の方々が一般に「しつけ」ということばから受けとっている意味とかなり違っているといわれるかもしれません。ふつうには、「しっかりと」とか「きちっと」「きびしく」することこそがしつけの第一の目的におかれるのではないでしょうか。それに対して、私のここでいっている「しつけ」は、そういう外からの規制をとりはずして、不要なものにしてゆくことこそ、しつけのねらいなのだと言っているのですから。とまどいを与えるようで申しわけないのですが、しつけの中で、そのねらいが見落とされていたら、それはけっきょく外見だけのしつけ、子ども不在のしつけに終わってしまうと思うのです。

 しつけ糸は、外さなければならない。その年齢が、5歳から7歳だなんて。

子どもによかれと思ってやっていることや、大人の価値観からこうあってほしいと思うことが、たくさんある。大人はきっちりしつけ糸をかけすぎていないかしら?私含め…。

子どもは遊びが仕事です、とはよく言ったものだと思う。お勉強は嫌いだけれど、縄跳びとあやとりに夢中になる長男のひたむきさには尊敬するよ。家の中で発作のようにいきなり三重跳びの練習とかされるとこわいけど。

ところで、

「全ての学問が人間学であり、全ての営みが人間学である」。

ちちのこの言葉、私は聞いたことがないの!ぜひぜひ、どんなときにどんな風に言っていたか教えてください。

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