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この世の全ての人がもっている痛み(あね)

いもうとへ

先日はありがとう。子どもたちは、あなたとだんなさんに可愛がってもらって、とても満足そうでした。子ども時代は、いっぱい愛情のエネルギーを溜める時だなぁと思う。愛された記憶や感覚は、この先生きてゆくための原動力であるよね。

Rくんへの考察を深めてくれてありがとう!確かに邪推かもしれないけど笑。
それにしても、野球をやめてバスケをやりたいと思った彼も、それをあの場で口にするんじゃねぇと憤った夫にも、それぞれのニーズや痛みがあるのよねぇ。
「野球あきちゃったから、バスケやってみたいんです、ただそれだけなんです。」
「自分が小学生の頃、同じ場面があってひどく傷ついたことを思い出したんだ。」
例えばこんなふうに言い合えることができたら、お互いに、ただ「そうなのだ」と知るだけなのよね。感情は、ある事象に対しての自分の反応でしかない。そう気づきます。

そして。ごめんなさいね。過去の私の発言こそ、なんて傲慢なのでしょう…。当然の如く、まるで覚えていません。。ただ、傲慢だ、なんて言い放った私の痛みだけはものすごく理解しています。私こそ、人の顔色を伺って生きていた。同じ体験をあなたの中に見た私はそれに反応し、意地悪を言うという行動に出たのです、きっと。そう言い放つことで、自分を慰めたのでしょう。。

人は痛みを理解されたい生き物なのだ、と言ったけれど。この世の人全てがもっている痛みがあるそうです。それは、
「つながりをもちたい。」
「ありのままの自分で愛されたい。」
という願いが満たされない痛みです。

人がこの世で生きていく上での痛みは、全てここから出てきてると言ってもいいのではないでしょうか。

お母さんのお腹の中にいる赤ちゃんは、怖いものはありません。いつだって心地よく、安全に守られている。欲もなければ決して怒らず、いつも静かに笑っているのかもしれません。
でもオギャーと生まれたその時から、この世の不快にさらされます。泣くわ泣くわ。自分じゃ何もできないのよ、私にかまって、という欲求のオンパレード。少しずつ、自分で自分を満たすことができるようになってきたと思ったら、今度はこの世からの要求をつきつけられる。こうしなさい、こうありなさい、という圧力を受けながら、それをとりいれないと生きていけない未熟な自分。それに服従して、それで愛を受けられると学んで、でもいつぞやそれは服従から反抗へ変化もする。

あなたが、蔑ろにしないで、と望んでいたのも最もです。
臍の緒はもうない。でもあの時のように、安心で安全な場所で、誰かとつながっていたい。ありのままの私で愛されないのだから、良い子になって愛されるしかない。紐解けば、そんな魂の叫びがあったのではないでしょうか。
それはもう、人類共通の痛みであると思います。

よかったよね。大人になって。大人は、過去の子供だった自分のことを愛しんであげられる。癒してあげられる。
そして、今の自分を愛してあげることこそが、人生の創造的なエネルギーを生み出すのだと思います。

そちらには春は訪れましたか。今度は遊びにきてね。

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