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05. 家出娘③(She's Leaving Home)

その夏わたしは、夏休みとしては初めて実家に帰った。帰省するのは年に一度、正月のみ。大学入学以来、母に文句を言われながらも、その方針を貫いてきたのだ。家にはなるべく近寄りたくなかった。距離を置いていたかった。


その夏わたしが実家へ帰った理由。


それは、父が事故に遭ったためだった。

母から「父が車に轢かれた」と連絡があり、青ざめ故郷へ駆けつけたのだが、真相を聞いてみれば何のことはない、出合い頭にスクーターにぶつかられただけのことで、ケガも軽い骨折程度のものだった。

一応精密検査を、ということで、父は半ば無理やり入院させられた。なにごともなければ一晩で退院だ。

居間で膨れるわたしに、母が紅茶を淹れてくれた。ご機嫌取りか、あるいは嘘をついた罪滅ぼしのつもりか。砂糖は二つだったよね、と言って、ソーサー付きの白いカップを、わたしの目の前にかちゃりと置いた。


「わたし、最近紅茶はストレートだから」

「知らぬ間に大人になったのね」


その通り、わたしは大人になったのだ。生まれて初めて男の子と付き合って、生まれて初めて本格的な失恋を経験した。もう、母の言うことばかり聞いてもいられない。

わたしがツンと紅茶を飲んでいると、母が唐突に言った。

「わたしの勘違いだったらいいんだけど、サツキ、最近失恋したでしょう」

「どうして」

「なんとなく、ね」母はわたしの疑問に答える代わりに、ため息交じりに笑った。「ずっと表情暗かったし、なにより、母さんもそうだったから」


母も?


意表をつかれたわたしの頭上には、さぞかし大きな「?」マークが浮いていたことだろう。

だが、母はそんなの意に介さない。懐かしそうに目を細め、話を続けた。

「母さんもね、学生時代に付き合っていた人と、この時期にお別れしたの。就活がきっかけね」

「え」

「まあ、就活はただのきっかけだったのかもしれない。将来の話をめぐってぶつかり合ううち、溜め込んでいたすれ違いみたいなものがいろいろ噴き出して、最後は全部壊れて、あとはそれきり。いい人だったんだけどね」

「それって、お父さんとは別の人?」

「当たり前じゃない」


お父さんにはナイショね、と母は笑いながら鼻に指を押し当てた。あの人元気かなあ、と紅茶を飲む母の横顔は、まるで十代の少女みたいだ。

こんなに柔らかな母の表情は初めて見た。母にもこんな顔があったのかと驚くし、ひょっとしたら、こちらが本当の母なのかもしれない。ふと、そんな風に思った。

「まあ、それでも父さんとの結婚は結果オーライとは思っているよ。ていうか、良かったと思っている」

「どうして?」

母は「もしも」を考えたりはしないのだろうか。ナツヒコ君と別れてからのわたしは、ずっと「もしも」を考えている。もしもあの時喧嘩をしていなければ、もしも早い時期に進路の話をしていれば、もしも就活なんかしなければ。もしも、もしも、もしも。

本やネット上の記事では「女性の方が切り替えが早い」とよく言われているが、果たしてそれは本当だろうか。なんとなくわたしは、これからも事あるごとにいろんな「もしも」を思い浮かべ、そのたび彼との別れを後悔する気がする。


「昔の恋人との別れは後悔してないの?」

わたしは疑問を口にした。人生の先輩としての母に、意見を乞いたかった。

「どうだろうねえ」

「やっぱ、後悔しているの?」

「その人とあったかもしれない未来を考えないかというと、それはウソになるかもしれない。けどね、それ以上にやっぱり良かったなって。その人との仲がダメになったから、サツキがここにいるわけでね、わたしにとってはたぶん、それ以外の未来なんてありえないのね。その人のことは、日常のふとした瞬間にたまに思い出して懐かしいなあ、って。それくらいがちょうどいい」


母の心境に至るまで、わたしはあと何度泣くだろう。あと何度後悔するんだろう。これから続く未来が、気の遠くなるほど遥か彼方にかすんで見える。

どうやらわたしは、涙を流していたらしい。ぐちゃぐちゃになった感情とともに、温かな液体が頬を伝っていく。

いつの間にわたしは、彼の名前を吐き出していたらしい。母が「ナツヒコ君ていうのね」と言っているのを聞いて、そのことに気がついた。少しだけ耳が熱くなるが、「夏に生まれたからナツヒコ君」とわたしは彼の名前の成り立ちまで明かしてしまう。もうなんとでもなれ。あとのことなんて、どうでもいい。


しかし、それに続く母の言葉が、わたしのやけっぱちを驚きで吹き飛ばした。

「あら、偶然。お母さんの付き合っていた人もね、季節にちなんだ名前だったのね。秋に生まれたから秋彦君。季節感があっていいね、って褒めたら、嬉しそうにしていたな」

「え、わたし、その人知ってるかも」


母はティーカップを持つ手を止めた。目を大きく開き、わたしを見つめる。
わたしは、続ける。

「父親も同じなんだ、って前に言っていた。お父さんは、秋に生まれたから秋彦。うちの家族単純だよなあって」

「名字は?」

「ナツヒコ君の?」

「そう」

「高梨」


母は少しのあいだ動きを止めた。そして、驚きが身体の中を去ってから、

「そうかあ、あんたが、あの秋彦くんの息子と」と嬉しそうに笑った。わたしもつられて笑ってしまう。血は争えないものだ、と内心考えると、母が「血は争えないねえ」と実際そのセリフを口にした。


「ねえサツキ。あんたお酒飲める?」

「ちょっとなら」

「よし、昼間だけど飲んじゃおうか」


母は立ち上がると、鼻歌交じりに冷蔵庫へ向かった。もはや同年代の友達にしか思えない。

母ってこんな人だったのか。その背中を見ながらわたしは考える。あるいは、わたしを育てるという重圧から解放されたせいだろうか。鬼のような教育ママにしか見えなかったけれど、本当はそれって、作られた仮面だったのではないか。これからは、母とはうまくやっていけるのではないか。

あれこれ考えていると、「ビールでいい?」という声が、冷蔵庫の方から届いた。

わたしは「ビール好きだよ」と大きな声で答えた。

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