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06. ミスター②(Being For The Benefit Of Mr.Kite!)

金曜日の夜、いつもと同じように街へ出た。渋谷の繁華街は冬の吐息で賑わっている。

孝太郎は、自分だけがぽつんと一人取り残されているような疎外感を覚えないわけにはいかなかった。

そんな後ろ向きの心が伝染したのか、声を掛ける女性全てに冷たくあしらわれ、気づけば終電の時間を過ぎていた。 

いまだ人の行き来する街を見つめながら、孝太郎は小さくため息をついた。月に一度くらい、こういう日はあるものだ。何をするにも、うまくいかない日。こんな日はさっさと家に帰ってしまうに限る。寝て起きれば、また新たな一日が巡ってくる。風向きだって変わる。


そう考え、繁華街の外れまで来たところで、路地裏の店が目に留まった。


バーだ。


店の佇まいは控えめで、街の光に完全に埋没している。知る人ぞ知る、常連客の集う場所なのかもしれない。どちらかといえば中年向け。若者の多いこの街においては、ほんの少し異質な存在のようにも思えた。

抗いがたい好奇心に襲われ、気づけば店へ吸い寄せられていた。「Mr.」という無愛想な看板のほか、外には何も出ていない。入口らしき扉を開くと、小さく鈴の音が響いた。

孝太郎はカウンターへ座るとビールを頼み、辺りを窺った。

店はそれなりに繁盛しているようで、ところどころで客同士が顔を寄せ合い、秘密の話に興じていた。ジャズと暗めの照明がほどよく空間を満たしているので、その内容が周りの人間に漏れることはない。

気配を感じて隣を見ると、カウンターの一つ離れた席に若い女性が座っていた。孝太郎と同じくらいの歳だ。待ち合わせをしている風でもない。この店を一人で訪れるにはまだ若すぎるという印象を受ける。もちろん、孝太郎とて他人のことを言えた義理ではないのだが。


「もしよければ、一緒に飲みません?」


孝太郎はカウンターに座る女性に声を掛けた。何をしているのだろう、という自己嫌悪に一瞬襲われるが、いつも通り、その感情には蓋をして、目の前の現実だけに意識を向ける。


「あ、はい」


相手からは気の抜けた返事がかえってきた。

これは大丈夫。孝太郎はそう確信し、一つ隣へ席を移した。これはたぶん、悪くないパターンだ。


よくここへは来るんですか。


そう言いかけたところで、思わず息を呑んだ。


相手の顔が、弥生と瓜二つだったからだ。

よく観察すれば違う人間だとわかるが、全身から立ち昇る雰囲気が似通っている。孝太郎は言葉を失い、身を固くした。


「どうしました?」

「知り合いに似ていたものだから」

「そうですか」

「この店にはよく来るんですか?」

「初めて。ふらふらしてたら、なんとなく。そっちは?」

「同じく、たまたま。渋谷にこんな店があるなんて知らなかった」

「バーなんて普段は絶対入らないんですけどね」

「どうして今日は?」

「寂しくなったから、かな。わたし、大学進学を機に上京してきたんです。


うちは過保護な家庭だったから、一刻も早くひとりになりたくて。ただ、いざひとり暮らしを始めると、ふと寂しくなる瞬間ってありません?」


「たまにあるかも」


たまに、なんてものじゃない。ほとんど毎日だ。渇きに似た感覚が、起きている間、特に夜にひどくなる。だから夜な夜な街へ繰り出してしまう。砂漠にコップの水を撒くような虚しい作業。頭でわかっていても、そうせずにはいられない。食べたり寝たりするのと同じ、いや、それ以上に、いまの孝太郎はこれなしには生きていけない。


もちろんそんなことは口には出さない。代わりに曖昧に頷き、話を進める。


「恋人は?」

「いた、けど…」彼女は首を振り、ため息をついた。「自分を探しに行く、って。海外へ行くみたい」

「自分は海外に落ちているものなのか」

「さあ」

「てことは、ひょっとして大学生?」

「そう、大学生」


どこの、と訊ねると、孝太郎が通うのと同じ大学名が返ってきた。そのことを伝えると、相手はへぇ、と興味深そうに笑った。

「うちの大学にもこういう人いるんだ」

「こういう人、ってのは?」

「バーへ来て、女の子に声を掛けるような人」

「みんな真面目なんだろうね」

「あなたと違って」

「根は真面目だよ」

「自分のこと真面目だって言う人は信用しちゃいけない、ってママに育てられたから」

「君の母さんは俺のこと何も知らないだろう」

「まあね」彼女は笑った。「ねえ、名前は?」

「ツヅキ」都筑孝太郎、というフルネームまでは明かさない。「そっちは?」

「五月に生まれたからサツキ。みんな下の名前で呼ぶ」

「では、サツキ。連絡先を交換しよう」

「いきなり?」

「時間は待ってはくれないからね」

「でも残念。ここ通信出来ないよ」

「まさか」


孝太郎はポケットから携帯を取り出し、パカリと画面を開く。電波三本。感度は良好だ。

「ほら、電波は来ている」

「ていうか、携帯古い」サツキはこらえきれなくなったように、吹き出した。

「ずっと使っているから」

「そういうレベルの話じゃないと思うけど」

じゃあどういうレベルの話なのだ、という言葉も、サツキの耳をむなしく通り抜けていく。会話の主導権は彼女にあるみたいだ。

「大学が同じなら、いつかどこかで会えるでしょう」

「噴水とか?」

「噴水?」サツキは首を傾ける。

「図書館前の広場にある噴水だよ。知らない? 待ち合わせ場所にもよく使われる」

「そんなのあったかな」

「本当にうちの大学の学生?」

「まあ、授業にはあまり出ていないから」


ゴメンね、とサツキは笑った。

万事がそんな調子で、孝太郎の言葉は全て受け流されてしまった。孝太郎にとっては、初めての経験だった。

サツキは「またね」と言って席を立った。

連絡先すら知らないのにまたね、はないだろう。苦笑いする孝太郎を横目に、サツキはバーの扉を開け、夜の街へ消えて行った。時計は真夜中一時半を指し示していて、始発まではまだまだ時間がありそうだった。

(to be continued…)

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