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自由主義社会において自由じゃない点について

現代では日本をはじめ、多くの国社会が自由となっている。表現の自由は認められているし、どこに住むかも自由。着く職業も昔に比べて遥かに自由になった。だがこのような自由な社会において、変わらぬルールめいたものが一つある。それは

稼がないといけないこと

もっと言うなら

勝たないといけないこと

である。
働き方は多様化したが、結局のところ「稼がないといけない」というルールそれ自体は変わっていない。また「稼ぐ」以外の方面でも勝たないといけないところが多々ある。もちろん今の社会は最低限の稼ぎがあれば日常的に暮らしてはいけるが、全く勝てない場合社会からどんどん相手にされず、社会の一員として認められない部分が出てくる。

この社会は格闘ゲームで例えるとわかりやすい。
自由度があまり許されていなかった昔の社会は対戦として使用できるキャラが8人しかいなかった。それに対して今は50人くらいいる感じである。そして対戦システムもかなり多様化し、戦略として取れる幅は広がった。
だが格闘ゲームがいかに進化し、戦い方の幅が増えようとも、「対戦に勝利する」という根本的な部分は変わっていない。プロはもちろんだが、例えアマチュアだったとしてもプレイしている格闘ゲームで全く勝てなければその格闘ゲームにおいて人権は認められないだろう。

あるいはオープンワールド系のゲームもそうである。「どこで何をするのも自由」という謳い文句の下で発売されたゼルダBOWやゼルダTOKでも克服すべき障害、倒すべき敵は存在する。それに勝てなければやはりダメなのである。

結局のところ勝たなければならないこの社会で何らかの意味で勝とうとしないというのは、対戦ゲームで戦闘勝利を目的としない自分勝手な行動をくり広げることになる(一試合で何回しゃがめるか、時間切れまでずっと逃げ続ける等)。そういう人間はやがて相手にされなくなっていく。

我々の生きている社会は共同体であると同時に、どこまで行っても戦場である。技術が発展し、生き方がどれだけ多様になろうとも、いやむしろ発展し多様になったからこそ、その戦いは終わることはない。人は望むと望まずとも、毎日社会の戦場に出かけていくのである。

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