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不安について(後編)

どのような境遇であろうとも不安を抱き続けるその対象が存在する。それは

である。

死というのは誰もが経験することになるものである。その人間が現在どのような境遇、身分であろうとも関係ない。金持ちだろうと貧乏人だろうと、偉かろうと偉くなかろうと関係ない。死は平等に訪れる。もしかするとある日突然不意に、不条理に訪れるかもしれない。

ハイデガーは人間は死を意識する存在だとして「先駆的存在」とか名付けたらしい。まあ細かい解釈はともかく、確かにやがてくる死を意識することができるのは人間だけだろう、多分。

また、人間の中でも普段の日常の中で死をはっきりと意識できる者はそう多くない。特に安全で快適なこの現代社会において、真逆ともいえる死について意識し、不安に覚えられる人間はどれほどいるだろう。

だが充実した生を送るためには、その反対の死について意識し、不安を覚えなければならないと思う。その不安こそが緊張感をもたらせ、生に張りを持たせるのだから。

それはマラソンで走る人間がゴールを意識することに似ている。ゴールを意識するからこそどういうペース配分で走るのかを考えたりと、色々と考えが活性化したりする。ゴールがない(ように思える)マラソンを走るのはきつい。

考えてみれば、「死」とは将来の出来事において唯一確実なことと言えるかもしれない。未来はどうなるのかわからない。色々と予測を立ててある程度は推測できるものではあるがそれでも絶対100%そうなるという保証はない。他方で「死」だけは確実である。「死」だけは確実に訪れる。その訪れ方は分からないとはいえ。その意味では「死」は安心できるものと言えるかもしれない。安心して不安を抱くことができるのだ。

大した努力をすることをせずとも快適に生きていける現代は恵まれているのは間違いない。だが恵まれているからこそ生が希薄になってしまっている。昔は人が今よりもはるかにあっけなく死んだため、生の実感が濃密ではあったのだろう。今は意識して死を意識しなければならなくなった、いい意味でも悪い意味でも。

もちろん、昔が良かったなどというつもりはない。今の方がいいに決まっている。ただ快適な社会になっているはずなのに、幸福度は下がっている。あまりに快適すぎて「死」から遠いのも問題なのかもしれない。

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