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伯父のもとへ

  伯父が入院したので、お見舞いに松本に向かった。高齢でかなりむずかしい病気にかかったと聞いていた。晩秋のどんよりとした空の下、と同じ灰色の心をかかえて電車に乗った。

 振り子電車と呼ばれるこの路線は、線路の幅員が狭いわりに速度を上げ、左右の揺れが激しくなることでつけられた名前だ。窓の外は木曽川のまがりくねった流れと紅葉も散ってしまった後の寒々しい景色。観光シーズンとは打って変わって、電車の座席もまだらにしか埋まっていない。私には少し強すぎると感じられる暖房で、車内は妙に乾燥していてやたらに喉が渇く。普段なら旅行気分を誘う冷凍みかんを食べても、気分はまったく晴れない。

 伯父夫婦にはとてもかわいがってもらった。大学教授だった伯父は、背が高く堂々とした存在感のある人だった。伯母は小柄な美人でとてもおしゃれな人だった。私が小学生のころから、夏休みには一人で遊びに行き、一週間ほど滞在することがよくあった。両親が不仲で、特に私には母からの体罰が厳しかった。少し距離をおいた方がいいだろうということで、伯父夫婦が私だけを預かってくれていたのだということはあとから知った。母の体罰におびえびくびくしていたにもかかわらず、その裏返しとも言える母への思慕は強く、妹弟のなかで私だけ母に見捨てられたように感じ、内心はとても傷ついていた。

 その痛みを和らげてくれたのが、伯父夫婦だった。おいしいものを食べに出かけたり、信州旅行に連れ出してくれたり、伯父夫婦のお客さまが来ても同席させてもらったりした。おかげで、私は食事のマナーや人との接し方を自然に身につけることができた。この自然にというところがとても大事だと思う。母もマナーには人一倍厳しかったが、そのしつけ方は体罰が前提だったので、マナーの本質を理解して身につけるというよりは、とにかく母に叩かれないようにするためにはどうすればいいかということしか頭になかった。

 伯父夫婦と過ごす時間で特に印象深かったのは、夜遅くまでおしゃべりをさせてもらえたことだった。子どもは早く寝るものという母の揺るぎない信念で、そんなことは自分の家では許されないことだったからだ。

 ほんの子どもであっても、私を一人前の大人として扱ってくれた。私の幼い考えや話にちゃんと耳を傾け向き合ってくれた。
「あなたはどう思うの」
と、事あるごとに聞いてくれた。

 そうするうちに、どうすれば相手に理解してもらえるような話し方ができるのか、自分の考えを頭の中で整理することの大切さを覚えていった。甘やかすのではなく、大人として話をし、間違っていることは指摘し、しかりもする。私のいいところをみつけてくれて、褒めるときは思いっきり褒めてくれる。引っ込み思案で恥ずかしがり屋で、そのくせ勝ち気な面があった私のアンバランスな精神状態をうまく落ち着かせてくれた。伯父夫婦には感謝してもしきれない。二人とも本当に大好きだった。

 その伯父が、おそらく最後の入院生活になるであろう病を得たのだ。楽しかった想い出が頭の中をめぐる一方で暗い気持ちで車窓を眺めていると、どこからともなく、やわらかな音色が漂ってきた。まるで鼻腔をくすぐるコーヒーの香のように。それほどかすかな音量だった。音をたどって車内を見渡すと、かなり離れた席に座っていた行商のおじいさんが、ハーモニカを吹いている。みんなに聴かせようとしてというより、自分自身のために思わず吹き始めた、そんな自然な感じだった。

 急に車内の空気がしんとなった。ほかの乗客もその音色に耳を傾けている雰囲気が伝わってきた。赤とんぼ、ふるさと、もみじなど、小学校で習った懐かしい童謡ばかりだ。心の中でそのメロディーを追っているうちに、鼻の奥がつんとなった。

 夕暮れの木曽路を走る車内は、ランプの生成り色と、ハーモニカの郷愁を誘う音色がハーモニーとなって私の心をときほぐしていった。

 病室のおじちゃんにこの話をしてあげよう。

 そう思いつくと、私はおじちゃんのベッドサイドに行く勇気を得られた気がした。さて、どんなふうに話そう。人の心を慰めるのは、言葉だけではない。この車内の雰囲気を、できればハーモニカの音色まで、おじちゃんにも感じてもらえるように伝えたい。私は頭の中でストーリーを組み立て始めた。

 おじいさんがハーモニカを吹き終え、車内には静かな拍手がさざ波のように広がった。一段と暗くなった車窓に、ぼんやりと乗客たちの顔を写しながら、電車は夜の入口に走り込んでいくところだった。


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