僕の宇多田ヒカル
「SCIENCE FICTION」という、最高の音楽アルバムがリリースされ暫く経ちます。
宇多田ヒカルデビュー25周年記念、初のベストアルバムです。
過去に遡って紡いだはずのベストアルバムなのに、完全新作を聴いたかのような新鮮さとインパクトを感じて、連日胸を躍らせ聴いております。
15歳の彼女が日本の音楽界を一気にひっくり返した一曲「Automatic」(1998)も、映画館のエンドロールで涙した「Beautiful World」(2007)も、林檎様との麗しいデュエット曲「二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎」(2016)も、完全網羅しているこのアルバム。
聴けば聴くほど走馬灯のように巡る当時の記憶…。
今日は「SCIENCE FICTION」を聴くことで、ムクムクと頭をもたげてきた宇多田ヒカルの曲への熱い思いについて書きたいと思います。
「光」(2002)という曲があります。
彼女が19歳の時の曲で、昔も今もずっと大好きで聴いている曲です。
この曲ももちろん「SCIENCE FICTION」に収録されているのだけれど、久しぶりに聴いて、やっぱりじ~んと心が震えて。そしてハタと「いったいなぜこんなにもこの曲が好きなのか」と改めて疑問に思ったのです。
これから書くことは、なぜ僕が「光」という曲が好きなのか、魅力はどこにあるのか、それを掘り下げてみて個人的に感じたものの備忘録みたいなものです。あくまでも個人的な曲の感想です。
まずこの歌ってとっても不思議だなと思うんです。
歌詞だけを読み下した時の印象と、曲を聴いた時の印象が全然違うんですよね。
歌詞だけを読んだときの印象は、少し疑り深い慎重な「わたし」が、自分を明るく照らす光のような「君」と運命的に出会った“喜び”。そして少しづつでもいいから「あなた」共に「きっとうまくいく」と信じて生きていきたい、という“希望“を歌った曲だなというもの。
映像でイメージするなら、新しい日々の始まりを祝福するかのような、光に満ちた爽やかな春の日。新芽の息吹を感じるような。
だけれどイヤホンを付けて曲を聴いてみると、ガラリと印象が変わってしまうんですよね。
歌声とともに聴くと、歌詞で感じた印象よりもずっと「切ないな」と感じるし、なんならずっと泣きそうになって聴いているのです(これは聴くたび絶対になる)。
歌詞だけを読んでも、そんなふうにはならないのに。
なんでだろう……。
僕は音楽の専門家ではないので、専門的な解説は何一つできないのだけれど、先日放送された「EIGHT-JAM」(テレビ朝日/毎週日曜よる11時~)の宇多田ヒカル特集を観て「コレだ!」と思う指摘に出会うことができました。
番組内でm-floのtakuさんが宇多田ヒカルの楽曲全般について、「メジャー(明るい)なメロディにマイナー(切なさ)が混在していて、ハッピーな曲でもどこか哀しさの余韻が入っている」と指摘したのです。
マイナー調というのは、少し不安定な音というか、日本民謡で言うと「さくらさくら」とかはそうですね。逆にメジャーというと「ぞうさん」あたりかな。イメージできますかね。
「光」という曲はメジャーで安定感のあるメロディで構成されているそうなんですが、一部不安定な音が混入してくるんだそうです。
多分それが、Takuさんの言う「哀しさの余韻」。
「わかる」と思いました。
「光」の場合は、あの歌詞がメロディを纏った瞬間、風景が夜になるのです。真夜中です(歌詞でも繰り返し言っている)。闇夜で「わたし」がひとりで歌っているイメージが広がっていくんですよね。あくまでも個人的な僕の感じ方ですけれども。
そして光のような「あなた」と出会えた“喜び”だけじゃなくて、この光は自分を照らすばかりで、その光の方に「わたし」はきっと行かれないという“孤独感”も胸に広がっていくから不思議なのです。
最初に聴いた時「わたし」は真夜中の住人で、きっと慢性的に孤独症(病というよりは、性質に近い)なのだというイメージが、ポンと浮かんできました。曲中に度々出てくる「運命」というワードはきっとそれを指していると。
これはもしかしたら宇多田ヒカルさんのイメージを無意識に投影しているからかもしれません。孤高の人というイメージは昔からずっと持っていました。国籍や言葉、それからセクシャリティ(「ノンバイナリー」だという告白をカジュアルにしてくれました)もどこか漂うようで、「どこかの枠に属して安心感を得ること」とは無縁の人なのかなというイメージ。
もちろん作品はフィクションだろうし、そういう捉え方は良くないな~とは思うのですけれども。
少し話が逸れてしまいました。
「光」を何度も聴いていると次第に「わたし」という主人公の背景みたいなものが見えてきます(めっちゃ勝手に)。
唯一無二と思える相手と出会っても、無邪気に永遠を望めない。
どんなに気持ちが盛り上がっていても、「信じきれないね」と自分を戒める。
少しづづでもいいから、確実なものだけを積み重ねたいと感じている。
その姿勢からは、他人との繊細な距離感の保ち方や、一度手にした他人のぬくもりを壊したくない、強い欲求みたいなものを感じてしまうのですよね。
飛躍してますかね。どうなんでしょう。
こういうのって他人の目にはどういうふうに感じるのかなと興味があります。
これら解釈の根拠はと聞かれても、多分説明できないと思います。メロディーから無意識に感じているんだと思いますし、歌詞だってただ底抜けな「幸せ」を表現しているだけではないことは、皆さんも感じていることと思います。
一旦そんなふうに感じてしまうと解釈(妄想?)は止まらなくなります。ずっと真夜中に居るような人(概念ですよ)だからこそ、光に憧れがあるのかなとか。強烈な光に照らされる分、一緒にいればいるだけ自分の影も色濃くクッキリ見えてくるんだろうな、それはとっても複雑だな、とかどんどん解釈が膨らんでいきます。
そして宇多田さんは歌い続けます。
曲とともに見えてきた「あなた」の心象風景を感じながら、このあたりを聴いていくと途端に切なくなるんです。とっても。
「話そうよ」とか「見ていてよ」とか、この語尾の「よ」によって、これらがとても切実なお願いに聞こえてきます。
遠い未来を信じる気はないし、油断すればまた真夜中に籠ってしまう気質も身体で感じている。ずっと一緒に生きていける保証なんてない。
でもだからこそ、少し先でも良いから未来の話を一緒にしたいし、「イマ」は私のことだけを見ていて欲しいという、「あなた」への強い思慕と祈りにも似た気持ち。
歌とか小説とか、創作物って放った創り手から離れて受け手に伝わった瞬間に無限の広がりを見せると思いませんか?
ごく個人的な思い出とか経験とかが、創作物と勝手に結びついたり離れたりして、受け取った人だけの解釈が生まれる。
宇多田さんが何を思ってこの曲を書いたのか、それはわからないし知らなくてもいいことだなって思います。
受け手が自由に解釈して、それを味わって、愛し続けるということは、とっても楽しい創り手とのキャッチボールだなと個人的に思います。
僕は「光」という曲に、孤独な運命を背負った人間の、光への憧れと“祈り”のようなものを感じました。
あなたは何を感じますか?
「光」(2002年 作詞作曲:宇多田光)
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