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「いい夢をごらんになるように。」

 「いい夢を」というのは、いい言葉だと思う。
 それは、寝る前のひとときに最も相手を思いやる響きだ。「さようなら」という、これでおしまいという悲しい響きでもなく、「またあした」という、本当に訪れるかわからない明日への希望をもたせるものでもない。明日は人生最悪の日になるかもしれないのだ。どちらかにとっての最期のお別れの日になってしまうかもしれない。
 「いい夢を」というのは、彼、もしくは彼女がやわらかい眠りについて、そこで厳しい現実とは違う時間を過ごせるようにという、甘い期待が寄せられている。いい夢さえあれば、今日も、明日も忘れて、気持ちいいひとときを過ごすことができる。そして何より、この言葉は親しい人にしか投げかけることができない。それがまたいいところだ。
 「いい夢をごらんになるように。」というのは、アメリカの小説家、フィッツジェラルドの短編『金持の御曹司』から引用した。
 『金持の御曹司』は、金持ちの家に育った他人への優位性を感じていないと生きていない主人公が何人もの女と関わるが、結局生まれつきの性格ゆえに何も手に入れらずに齢を重ねていくさまが書かれている。最初に婚約をした相手、ポーラとは、すれ違いの末にポーラが他の男と結婚することになり別れることになる。その後、性格の違う女たちと付き合うが、ポーラほどの情熱を注ぐことが彼にはできなかった。
 数年後、孤独に苦悩する彼は偶然ポーラと出会う。彼女は2人目の夫と子どもに囲まれて暮らしていた。昔のことを忘れ、幸せそうにするポーラは主人公に「わたしたち、仕合わせになれなかったわね」と語る。身重の彼女は、夫に抱きかかえられて寝室へと向かう。その時に主人公にかけたセリフがこれだ。
 このセリフは少し古風というか、丁寧すぎる感じがするが、それが主人公に対する思いやりになっている気がする。「いい夢を」だけではなく、「ごらんになるように」。「みてくださいね」という投げやりが込められているのでもなく、「みれたらいいわね」という無責任な言葉でもない。そこにはかすかに祈りが込められている気がする。
 幸福な彼女とは対照的に、明日からも、今日と同じような孤独でそれを癒す兆しの見えない日々が続きそうな主人公には、一時的にも「いい夢」は現実を忘れさせてくれるものになるかもしれない。
 ところで、あなたは朝目覚めた時に夢を覚えているだろうか。仮に覚えていたとしてもそれは朝目覚めた瞬間におぼろげな意識の中で反芻するだけではないだろうか。しっかり目覚めた時にはもう覚えていない。一日中見た夢のことを考えることなんてきっとないだろう。
 夢は、それを味わった後に尾を引くことのない、紳士な嗜好品であるかもしれない。

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