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震災12年忌日:何者かであるための闘い

 震災12年めは、仏事でいえば13回忌になる。早いといえば早い、あっという間といえばあっという間、凡庸ないいまわしであるけれど、あまりに多くのことがありすぎた時間をひとことでまとめるなら、こんなものになってしまう。
 私事でも、実母の13回忌を半年前に終えた。ちなみに、という但し書きも妙な気がするけれど、母の死を皮切りのようにして、震災後の数年間に、親戚を多く亡くしている。叔父、伯父、祖母、義伯父、従兄弟伯父、これ以外にも身内の大病も重なり、法事もろもろで頻繁に帰省することになった。(こう付け足すのも、さらに妙な気もするけれど、全員、自然死である。)
 震災後の活動をしながら、頻回に帰省していると思われていたようだけれど、こういう事情だったのであった。誰にも言わなかったので、不審に思われたかもしれない。こういう時に、近くにいる人に伝えないのは、私の悪いところである。と、最近は自覚するようになった。(申し訳ない。)

 13回忌となる現在の福島の復興シーンについての総括的な意見は、NHKの「日曜討論」と日本経済新聞電子版で述べさせてもらった。現状について、ポイントをついてまとめられたと思うので、復興シーン全般についてはリンク先をご覧いただけたら、と思う。(日経記事は会員限定)

 復興関連の世界にいると、原発事故によって人生が変わった人たちとよく遭遇することになる。そういうと、多くの人は、「被災者」を想像するだろうし、もちろんそうなのだけれど、支援や、いわゆる加害側の立場でも人生が変わった人に出会う。12年間経てば、もう戻る場所がない、という人も少なからずいる。そういう人と出会うと、同病相憐むというのではないが、大きな出来事の余波、大文字の歴史にはあらわれない、その水面下にあるうねりともうごめきとも呼べるものを感じ、慄然とするときがある。

 被災当事者とそうでない人間を区分する条件があるとするならば、被災を現実にしたかどうか、というだけでなく、そのことによって人生が変わった人と変わらなくて済んだ人、なのかもしれない。

 災害であれ、戦争であれ、事故であれ、大きな破局的な出来事が社会に与える影響は、人的な損失がもっともわかりやすく、次にインフラ損壊、経済影響、統治体制の動揺で、最後に地域共同体の変化、PTSDといったメンタル面への影響だろうか。目に見え、指標化や定量化しやすいものから順に、「被害」「影響」として認知されていくことになる。

 原子力災害は、放射性物質の拡散というその性質上、こうした目に見える影響は少なく、被害がわかりづらいとしばしば指摘されることだ。一方、ひとりひとりの人生についての影響は、メンタルヘルス以外には「生活再建の困難さ」といった雑駁な語られ方以外に着眼されることは多くはない。

 最近思うのは、大きな災害がのちのちまで長く社会に影響を残すのは、個々の人生の存立基盤を揺るがし、少なからぬ事例で、その回復が困難となるからではないか、ということだ。
 わかりやすい言い方をすれば、誰もが生きている上で基盤としている「自分は何者であるか」という自己規定が無効化され、あらたな自己像を構築することを余儀なくされる、という事態だ。
 「自分は何者であるか」という問いは、思春期から青年期の自我が確立される時期に多くの人が抱くものだと言われる。だが、この問いはその時期だけに特有のものではない。たいていの人は、年を重ねるごとに、なんらかの集団のなかに自分の居場所を見つけ、大なり小なり、「自分は何者であるか」という問いに、それなりの答えを用意する。そのため、問いが表面化することが減るだけだ。その問いは、日々あたりまえに過ごしている生活が揺らいだ時に、誰でもいつでも、ふたたび襲いかかる、そうした類のものだ。

 事故前の私自身の人生は、何者でもなくなることを目指していたわけだが(いわゆる「世捨て人」)、原発事故に直面して理解したのは、社会に規定も干渉もされずに存在する生き方など不可能である、ということだった。私たちは、望もうとも望まざるとも、社会的生物としてしか存在し得ない。

 「自分が何者でもなくなる」ことは、社会的生物である人間にとっては、自己の存在否定にも直結する、おそるべき事態となる。多くの人は、何者かであることを存立させるための苦闘を続けることになる。だが、その苦闘は、必ずしも報われるものではない。特に、人生の途中や終盤にかけて、何者かであることを失った人が、それを取り戻すのは至難の技となるだろう。若い人とて、その時に抱えた欠落を、生涯抱えていくことになるかもしれない。

 「自分が何者であるか」を問い続けねばならないのは、苦しいものだ。その苦しさに耐えかね、目の前にある見当違いとも思える答えに飛びつくこともある。自棄的になることもある。悲嘆に沈むこともある。だが、ひとたび失えば、それを問い続ける以外の生き方は選択できない。

 大きな出来事の後は、こうした苦闘の作業を行う人たちが、多く生み出される。それは、歴史の正史に残されることはなく、また記録として辿ることもほぼ不可能かもしれない。たいていは、歴史の水面下に沈んでゆく。目撃するのは、唯一、同時代の人間だけだ。これからも、その闘いは、さらに続けられるのだろう。なんのために、誰のために、というのでもなく、ただ、人間であるために、あるがゆえの闘いを。

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