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エッセイ:空を飛ぶ男

よくしなる弓でかたく張った細い弦をゆっくり引くような音が、夜のしじまに響く。トラツグミだ。なぜこんな夜更けに、と思うような時間にいつも鳴きはじめる。あたりがほかの物音のさざめきで満たされていたならば、鳴き声に気づくこともないのかもしれない。しばらく止んだかと思うと、また思い出したように鳴く。

***
オレ、蜃気楼だと思ったんすよ。
暑い日には、道路に水たまりみたいに蜃気楼が黒い影で見えることがよくあるんすよ。だから、その時もそう判断して、最後の追い込みに入るとこだったから、思いっきり踏み込んでフル加速して。時速で200キロ越してました。
そしたら、蜃気楼と思ってた黒い水たまりが、前に通過したバイクがマシントラブルで落としてったオイルで。ほんと最高の条件で滑っちゃって、やべ、と思った時には空飛んでました。いや、ほんとに空飛んでたらしいですよ。数十メートル先までふっ飛んで、そこで着地というか、投げ出されて。
オレは覚えてないから、見てた人がほんとにきれいに空を飛んでたって。気づいたらベッドの上だったんですけど。全身何十箇所って骨折で。うん、記憶、ほとんどないです。でも、悪運が強かったんでしょうね、死ななくて。医者にもよく生きてるって驚かれました。
まぁ、それでも、傷の方は治ったんですけど。そのあと、やっぱ怖くて。加速するためにめいっぱい踏み込まなきゃいけないところで、蜃気楼のことがふっと頭によぎって、やべ、って、どうしても踏み込めないんですよ。何回かやったけど無理で。だから、もう、レースはダメだなって。
そのあとは、サーカスのバイクショーやってました。ええ、サーカス。や、すごいっすよ、火の輪とかバイクでくぐるんです。球の上をバイクで乗ったり。それで、金髪のおねーちゃん、バイクの後ろに載せたりして。

懐かしむような遠い目をしながら彼はそう言って、タバコをくわえ、煙を一息はき出した。その様子は、演技がかっているようにも見えた。
彼の若かりし日の武勇伝は、荒唐無稽でもあり、もしかすると作り話なのではないか、そんな思いがチラと過ったりもした。けれど、仕事の合間に彼がまくって見せた足の大きな傷と、半袖からのぞいている腕にもある無数の小さな傷跡は、その話が事実であると証明しているようでもあった。
若かりし日、といっても、当時の彼もまだ30半ばだった。器用にバックホーを操るその腕の確かさに比べて、機械から降りた彼はどこかぎこちなく、重たそうにわずかに足を引きずりながら現場の土を掘り、砂利を猫で運び、モルタルを練り、地面に這いつくばってそれを塗り込めた。

若い頃はやんちゃしてて。高校はいわきまで通ってました。ほら、あの高校。そうそう、悪くて有名だった。最初に日にオレ、上級生に怒られたんす。オマエ、(双葉)郡から通ってんのか。こんなバカ高校通うために、わざわざいわきまで来んのか、親に申し訳ないと思わねえのか、って。オレも血の気多かったから、なんだコノヤロって、入学初日にいきなり大乱闘。もう来んなって言われたとおり、最初の1ヶ月で退学になりました。

「いわきのバカ高校」は、あまりのその評判の悪さに、数年前に校名も変え、履修課程も全面変更、今では別の高校になっていた。もういまじゃ、その高校の出身だって言っても、誰もわかんないし、元の高校がどれだけ悪かったかもわかんなくなっちゃいましたね、と彼は笑った。

そのあと、自宅の裏山で、めちゃくちゃにバイク乗りまわしてて、免許はまだ取れなかったから。アメリカに住んでるおじさんがいたんです。そんなにバイク好きなら、こっち来てみるかって。もうここから出たくて仕方なかったから、それに飛びついて。あっちでプロのレーサーになって。スポンサーもついて、英語で契約書結んで。もちろん、英語でやりとりです。どうやったのかな、って今では思うんだけど、でもまぁ、何とかなったんです。オレもナメられるもんか、って死に物狂いだったから。

英語を話せるの、と感心してみせると、今はもうすっかり忘れてしまった、と彼は言う。それが謙遜なのか、本当に忘れてしまっているのかは、わからない。

こんなとこいやだいやだ、早く出たいって。そればっかりで、アメリカまで行ったんですけど、結局、戻ってきちゃいましたね。
盆正月、きょうだいみんなで実家に集まると賑やかで。きょうだい五人、おれは末っ子で、おやじはいないから、おふくろはふだん一人なんすけど。古い農家屋だから、甥や姪が走りまわって。なんか安らぐというか、ほっとしますね。若い頃はあんなに出たくてしかたなかったのに。

一服休みに、彼は実家の家族のこと、きょうだいのことをよく話した。心を許した友人が多くいるようには見えなかった。彼の話す実家は、幻影のようなやさしさとあたたかさに包まれていて、どこか現実味に欠けているようにも感じられた。まるで遠い異国の地から望郷の思いとともに眺めた「ふるさと」のようだった。

この間、鈴鹿の8耐出ないかって、昔の知り合いから連絡もあったんですけど。バイクももうバイク屋に預けちゃって、バイク屋の倉庫を何年間も開けてないから。レースに出るなら体も作らなきゃいけないけど、今はたるんじゃって、とても昔の仲間には見せられないです。今は、こんなただのドカチンになっちゃってますけど、現役時代は、締まってて細かったんすよ。女の子にもキャーなんて言われて。

はにかみながらも、彼は付け加えた。そう言われて、眺めてみれば、整った目鼻立ちのやさしい顔をしている。そのことを自慢したかったのかもしれない。

ちょっと聞いてくださいよ。

一方、彼がそう言って話しはじめる内容は、決まって職場の愚痴だった。だらしのない上司、仕事を仕上げることの意味がわかっていない同僚、自分はお客を満足させるいい仕事をしたいんだ、それが連中にはわからない。苛立ちを吐き出したあとは、ま、しかたないんすけどね、と、諦め混じりのような遠くを見つめる表情をしたあと、じゃ、やりますか。と残りの仕事に取りかかった。人あたりもよく、温厚な人ではあるのに、いつもなにかに不満を抱えているようにも見えた。

彼は、職場に近いいわき市で妻子と一緒に住んでいた。原発が爆発したあと、彼の実家は避難するように指示が出た。1ヶ月くらい経ってから、携帯に電話をかけた。その頃、挨拶がわりに誰もが言っていた「大丈夫か?」との問いに、彼は、悲鳴のような泣きそうな声で答えた。

全然大丈夫じゃないっすよ!

地震のせいで借りていた戸建ての自宅は少し歪み、玄関が閉まらなくなってしまった。原発の状況の悪化が伝えられ、避難指示は出なかったものの、生まれたばかりの小さな子がいる彼は、妻と一緒に、家の片付けもそのままに、県外の親戚のところに避難した。避難指示の出た実家の親や親戚も一緒だった。数週間経って、自宅の様子を見に帰ったら、歪んで玄関の鍵がかからないまま不在にした自宅は空き巣に入られ、お金になりそうな家財はごっそりすべて持っていかれていた。

もうさんざんっすよ。

彼は憤りをぶつけるように、相槌も打つ間もなく電話口でそう伝え、先のことは考えられない、と言って電話を切った。数ヶ月後、もう一度、電話をかけた。親戚のいる避難先で仕事を紹介してもらった。こちらでしばらく手伝いをしていこうと思う。言葉少なにそう言った。その後、携帯はかけても繋がらなくなった。


彼の実家は津波に流されたのだという人もいた。数ヶ月後に会った、彼の元勤め先の社長は大きな目を瞬かせながら、否定した。

なんで、そんなこと言うのかなぁ、あいつの実家は山にあるから津波にはあってないっす。ただ、原発が近くて…。第二がすぐそばなんす。うちの会社もほかにも避難したやついます。ほら、あのもう一人バックホー使うのうまいの。そいつ、自分は戻ってきたんだけど、奥さん子供はどうしても戻りたくないって。月に一回、自分があっち行ってるらしくて。こっちで一人暮らしで、気落ちしてて、見ててかわいそうで。
あいつには、オレも電話してたけど、繋がらなくなりました。番号変えたんでしょうね。まぁ、あっちに親戚がいるって言うし、いま、オリンピックの準備で東京は稼ぎがいいらしくて、仕事には困ってないみたいだから、大丈夫でしょう。

恰幅のいい社長は、以前、彼が苛立ちながらそのだらしなさへの不満を述べたてたのと同じ人物とは思えない。言葉の端々から人のよさを隠せない。

あんまりよそ様に言うのもみっともないんで、言わなかったんですけど、あいつもまぁ、いろいろあって。ええまぁ、ちょっとめんどくさい話なんですけど。

社長は、そう言葉を濁した。
実際のところ、彼が苛立っていたのは、社長や同僚ではない、もっと別の何かに対してだったのかもしれない。それがなんなのかはわからない。もしかすると、空を飛んだ彼に、地上の重力はあまりに迂鈍に感じられたのかもしれない。

人のいい社長は、慈愛に満ちた眼差しで付け加えるように言った。

でもまぁ、あいつも、いつか帰ってくると思うんんですよ。オレもそうでしたから。

その「いつか」はいつだろうか。何年かしたら、と社長は言い直した。

戻ってきたときに一発くらすけてやればいいと思ってんす。

社長はそう付け加えて、丸い顔で笑って見せた。

それから何年かが経った。彼は戻らなかった。社長ももう、いつか帰ってくるのでは、とは言わなくなった。もう一人のバックホー使いは、妻子の避難先に自分も転居した。彼の実家のあった街の避難指示は解除された。彼の母親は戻って暮らしているとかいないとか風の噂で聞いたような気もするが、定かではない。

全然大丈夫じゃないですよ。

彼がそう電話で悲鳴のような声を上げた日、空には2本の虹がかかっていた。これは何かの啓示だろうかと束の間思ったが、何も起こらなかった。

いつかは区切りのない期限だ。いつか、やがて、いつか、あの日の記憶が蜃気楼のように遠くなった時、彼は帰ってくるのかもしれない。トラツグミの鳴き声を聞いて、彼のことを思い出した。


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