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エッセイ:変わらないことのよさへの追悼

 コロナの影響を慮って親戚以外は参列を謝絶したとはいうものの、がらんとした式場は、この街の気配を正確になぞっていた。たんに人が減った、というのではなく、生命力が薄まったというのだろうか、活力そのものが失われている。鎖国とも呼べるかもしれない地域閉鎖の影響は、2年半をかけて徐々に染み渡り、おそらく、もはや元に戻ることはないのであろう、と、晴れ晴れとした表情の親族を見ながら思った。

 101歳の大往生だった。大正10年生まれだったか。生まれた時は「サムライ」だったのだと言う。羽織袴姿の父親とともに映った幼少時の白黒写真は、なるほどサムライの家の跡取りであったことをうかがわせる。だが、8歳の時に生家は没落、家屋や敷地は残ったものの、幼い弟妹を抱えた貧しい百姓暮らしとなった。7人兄弟の長男、下の弟、妹たちにしてみれば父親代わりだったろう。戦地に行くことはなかったものの、徴兵も経験。すぐ下の弟はシベリア送りになり、復員後も、シベリアのことを語ることはなかった。その弟はとうに亡い人だ。

 私と同世代の孫娘が弔辞を切々と読み上げる。

 おじいちゃんは、なんでもできたね。魚釣りも、野菜を育てるのも、餅を作るのも、魚を捌くのも、なんでもできた。いつもたくさん用意されていた薪も、手入れされていた畑も、なにもかにもずっと変わらないと思っていた。でも、ぜんぶ、ぜんぶ、おじいちゃんが用意してくれていたんだね。

 自分で体を動かすしかなかった貧乏暮らしだったから、すべてを自分の身の回りで調達するしかなかったから、だからこそ、身近な生活空間のことであれば、なんでもできる。スーパーマンでいられる。義伯父は、そんな、無数にいた田舎のスーパーマンのひとりだった。数えきれないほどの彼ら、彼女らが、わたしたちが日本の原風景と勝手に呼び馴らす風景を作り上げてきた。(もっともその「原風景」の多くは、戦後、高度成長期以降にイメージ化されたものだろうけれど。)

いつまでも変わらないと思っていた。

 結婚によって親族の末席に座することになっただけのわたしでさえ、行けば、そこにはささやかな居場所がいつも用意されていた。「よくきたな」の一言とともに、ちゃぶ台のまわりの座布団を勧められ、近況報告がはじまる。2011年の大津波で、周辺一帯は相貌を大きく変え、親戚の何人かは海にのまれたにもかかわらず、小高い場所にある本家だけは、まるでそこだけ守られているかのようにふしぎに震災前の暮らしを保ち続けていた。

そして、主人亡きあと、それを保ち得ないことは、誰もが知っている。

それは、もしかすると、わたしたちに許された最後の時間だったのかもしれない。変わらないことを夢見ていた、変わらないままいられると思っていたわたしたちが、変わらないことのよさへ最後の別れを告げるための。それは、西日本育ちのわたしが30年前頃を境に失ったものだった。

 親戚の誰もが立ち寄れる寄り合い所みたいにしようかと思ってるんだ。

ここ何年か、家屋の管理をとりしきっている従兄が言った。焼き場の収骨室で、わずかな親戚だけで骨を拾った。灰の足元から硬貨を掘り出し、せっかくの縁起物だから持っていきな、と誰かれなく薦める。このあたりでは、火葬の際に硬貨を一緒に入れて焼き、収骨後に参列者が縁起物として持ち帰る風習がある。普段は断ることが多いのだけれど、今回は、小さく切った新聞紙に包まれた一枚を持ち帰ることにした。確かに、そこに変わらないことのよさがあったのだと証立てる証拠品として。もはや二度と戻らぬそれの形見として。

 はしめおんちゃん、ありがとう。

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