漁業者に決めさせるな、と、政府が勝手に決めることは違う

コロナ禍ですっかり関心も薄くなってしまったなか、福島第一原発のタンク内に溜められている「水」問題についての「関係者のご意見を伺う会」が第4回まで進められている。政府の言い分では、タンクの敷地は2022年夏が限界であり、規制庁による許認可にかかる年月を考えれば、今夏中に決定しなければならないのだという。

これまでの経緯は以下。
https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/osensuitaisaku.html
https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/hairo_osensui/osensuitaisaku.html

5月15日までとされていたパブリックコメントの募集も7月15日までに延長され、「ご意見を伺う会」ももう少しは続けるようではあるが、その意見を受けてなにか動きを起こすという気配も感じられず、おそらくは、聞くだけは聞いたので、政府としてはこういたします、との結論を述べることになるのではないかと予測している。

この進行の見立てが正しいとすると、いささか気が重い展開になると思われ、政府の結論が出る前に、ひとこと書いておくことにする。というのは、私が兼ねて主張してきた「漁業者に決めさせるな」「政府が責任を持って決めろ」という意見を、それならば、聞くだけ聞いて政府が決めることが責任ある判断ということだろう、と誤解されている節があるように思うからだ。

まず、「漁業者に決めさせるな」という主張について。
そもそもなぜこれを言い始めたかというと、その契機は原子力規制委員長の発言にある。規制委員長は、前委員長の田中俊一氏、そして、現在の更田豊志委員長も、早期に「水」を放出するように主張していたのは、知られているとおりである。その際に、彼らは「漁業者を説得しろ」と述べていた。これは、現在放出されているサブドレン水と井戸水を処分を決める際にに、東電と漁連が「漁業者の許可無くして、今後、第一原発構内から水を放出しない」と約束したことが背景にある。ここで、規制委員長は、単純に「漁業者の許可をとれば容易に放出できる」とでも考えたのであろう。しかし、広範な社会的影響を及ぼす事象に対して、これはあまりに楽天的発想であった。政府機関の長である人間が、メディアの前でそのように公言すればするほど、漁業者は反感を覚えたであろうし、また同時に、漁業者に対する政府からの圧力、そして、一般的な社会圧力も強まったと感じられただろう。漁業者にとって、海洋に放出することにはそもそもなんのメリットもないのだ。自分の利害や気持ちに即して素直に反応すれば、「反対」となるのは当たり前である。そこに、頭ごなしに政府の人間が圧力をかければ(かけたと感じられれば)、ますます追い込まれ、却って反発を強めるのはわかりきったことであった。これが水面下で、ひそかに意見をやりとりしているというのであれば、話はまた別である。

これもそもそも論であるが、どのようなものであれ「折衝」というのは、人間心理や面子や立場に配慮した上で、表に出す部分、出さない部分を、そのタイミングとともに見極めながら行うというのは世の東西、古今を問わないあたりまえのことではないだろうか。当事者そっちのけで、外側の人間がメディア等を通じて間接的にあれこれ言ったところで、交渉は失敗することがあれども、うまく進むはずがない。あの一連の発言によって、漁業関係者の態度はかなり硬化したと私は思っている。
また、こうして漁業者の決定によってすべてが決まるというフレームアップが行われると、世論的には漁業者が決定責任を負うかのように見られることになる。反対する人、賛成する人、どちらもが漁業者の結論に対して批判や賛意を向ける。漁業者としては、「水」問題にそもそもがかかわりたくてかかわっているわけでもない。事故が起きて、巻き込まれてしまったというだけの話だ。それなのに、その責を負わされるのは、あまりに理不尽というものであろう。

こうした事情から、まずは「漁業者に決めさせるな」という主張を行うことになった。つまりは、おおもとでいえば、交渉ごとのイロハを理解していなかった原子力規制委員長の発言が原因である。


ならば、とりあえず意見を聞くだけ聞いて、あとは政府が決めればいいだろう、となると、それはそれで違う。
最終的な責任の決定を漁業者が負わせられるような形になるのは、政府意志決定のあり方としても、道義的な問題としても、理不尽である。かといって、この件に関する重大なステークホルダーとの調整を行わずして、意志決定を行えば、拗れることになるのは容易に想像できる。生活や、職業を支える場所に対して影響を及ぼされることが確実な「水」問題については、多くの人が、懸念も疑問も、あるいはこうしたらいいのではないか、と言った見解ももっている。それらをとりあえず聞くだけ聞いて、あとは勝手に政府が決めました、となると、反感は強まるだろう。望ましいプロセスとしては、さまざまな懸念や疑問、要望やアイデアに対して双方向的なやりとりをおこない、なにが問題なのかを含めて、ステークホルダー立ち会いでしっかり揉んだ上で対応を考え、最終決定を行うというありかたである。ステークホルダーにとって、自分の意見にきちんと向き合って取り上げてもらった上で決められることと、やり取りなく勝手に決められることでは、たとえまったく同じ結論になるとしても、納得度は天と地ほどの差が出る。そして、大抵の場合、ステークホルダーが関与した方が、バランスの取れた現実的なよい案ができるものだ。

なにより重要なのは、これは、順番と手続きの問題だ、ということだ。社会問題が大きく拗れるときには、順番と手続きを蔑ろにすることを原因とすることが多い。結論は、むしろ大きな問題ではないことでさえある。「水」問題については、とりわけそうであると私は認識している。放射能問題に関しては、これまで「科学リスク」の問題が前面に出てきたせいであると思うが、その面ばかり強調され、社会的な手続きの重要性を論じる人が非常に少なく、また重視もされていないのではないかと感じることがある。

端的に書いておく。

結論を先に出すな。調整と交渉が先だ。手続きを重視せよ。そして、人間心理の問題を軽く考えるな。

また、国内の問題とはまた別に、政府はあまり深く考えたくないのであろうが、近隣諸国との調整も重要な問題となってくるだろう。とりわけ、日韓関係は現在、朝鮮戦争後最悪と言われるレベルであるから、そうとうに手強いことになるであろうと考えられる。この先、政府が一方的に結論を発表するとすれば、どのようなリアクションが返ってくるかは想像がつかないが、これまでの韓国政府の対応を見ていると、日本側の想像を遙かに超える激烈な反応が返ってくることを想定しておいたほうがいいだろう。日韓関係を特殊と考えたとしても、近隣諸国においても、総じて汚染水への懸念は強く、各国の政治的意図や国内事情も絡むであろうし、それぞれどういった反応が返ってくるかは読めないところもある。ただひとつ言えるのは、こちらも十分な事前調整なしに、一方的な結論発表を行うのは、最悪の悪手である、ということだ。特に韓国との関係は、WTO提訴からの一連のこじれ方を今一度振り返り、一度結論を発表してしまうと、とりかえしのつかないレベルでの混乱が生じる可能性も考えておいたほうがいいと思っている。この手の国際関係は、どちらが「正しい」「間違っている」という筋論の問題ではない。いかに交渉をうまく妥結させるか。重要なのはそれだけだ。そういう現実的な観点に立って、思慮してもらえることを願っている。

以上。
(溜息をくりかえし吐きながら。
外では、ウグイスとキツツキの幹を撃つ音。夕べは窓辺を蛍が舞った。)

2020年7月8日追記:
『論座』に掲載された福島大学小山良太氏の記事「海洋放出の是非を考えるのに欠かせない「トリチウム水」への理解」を読んで、私が失念していたことについて補足する。

福島県漁連は、東京電力福島第一原発の汚染水低減策として、建屋周辺の井戸(サブドレン)などからくみ上げた地下水を浄化した上で海に放出する計画に関して、2015年度から容認してきた経緯がある。しかし、これは安定的に廃炉作業進めるためにやむなく県漁連が了承したものであったが、当時の海洋放出に関する報道に際して、福島県の漁業者の方に批判が殺到したという事実があった。
https://webronza.asahi.com/national/articles/2020070300002.html?page=6

少なくともこの事実は、これまでの経緯を知っていた人の間では共有されており、漁業者に対して「申し訳ない」という感覚は残っていたと思われる。ふたたび漁業者が矢面に立たされ、批判を殺到させるようなことにしてはならないという思いが、資エネ庁が漁業者との交渉を及び腰にさせたという点はあるだろう。資源エネルギー庁に同情すべき点があるとすれば、ここにある。そうした経緯を知らず(またこれまで関心も持たず)、突然沸き起こったのが規制委員長の一連の発言であり、また、原田義昭元環境相の発言であったわけだ。彼らがいかにこれまで地元との折衝や、「水」にまつわる地元側の状況に無関心であったかを示す証左であろう。

--------追記ここまで


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