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エッセイ:Twitterのおもいで(4)

 2018年だったか、もしかすると2019年だったかもしれない。とにかく、刑事告訴からずいぶん時間が経って、反原発活動家のことを思い出すこともなくなり、私の記憶からも消え去ろうとしていた頃だった。

 私の活動を最初の時期からよく知っている友人から、不思議なダイレクトメールが舞い込んだ。「エートスの活動には〇〇さんがかかわっているんですよね?」と、とある専門家の関与を確認する内容だった。名前のあげられたその人は、私が刑事告訴した活動家が、Twitter上で事実無根の関与を言いたて、電凸を扇動した相手だ。長い付き合いの友人は、その専門家が私たちの活動に関与していないことは十分に知っているはずだ。いまさらなぜこんなわかりきったことを尋ねるのだろう? と不可解に思いながら、否定をした。

 友人は、やっぱりそうですよね、と言った後、実は、少し前に、件の反原発活動家と親しくしていた人(Aさん)と偶然に会ったのだ、と言う。Aさん自身もまた、Twitter上で危険派の立場で非常にアクティブな書き込みを行っていた人だ。アカウント名をあげれば、当時の福島関連の議論を見ていた人なら、すぐに誰だかわかるだろう。Twitter上で、反原発活動家がAさんとやりとりしていたのは私も見ているし、二人の間で情報交換をしていることは不思議ではない。
 だが、友人がこの後に送ってきた内容は、喫驚ものだった。

 〇〇さんがエートスの活動に関与していると、福島県のBさんが言っていた、と活動家が言っていて、Aさん自身も直接Bさんからそう聞いている。二人は、Bさんの言葉ならまちがいない、と完璧に〇〇さんの関与を信じている。

 この説明を聞いて、私はすべてのピースがつながったと思った。もともと、活動家がなぜ〇〇さんのエートスへの関与を主張し始めたのかは、大きな謎だった。私には、専門家や研究者の知り合いは多くおり、なかにはもっと世間的に著名な人もいた。〇〇さんは、その分野においては確かに実力者ではあったけれど、ネット上はもちろんのこと、マスコミでもほとんど見かけることもない、実直な研究者だ。学術業界に詳しいとは思えない活動家が、なぜある日突然、名指しで〇〇さんの固有名をあげはじめたのかは、当初から不可解だった。

 今回、その情報の出元として名前が出てきたBさんは、私もよく知っている人だった。福島県内の放射線関係の集まりでは遭遇することもあったし、またTwitter上でもアクティブにしていたので、よく見かけた。(Bさんのことも、当時の福島関連の議論を見ていた人は、誰だかすぐにわかるだろう。) だから、同じようにTwitterでアクティブにしていた活動家やAさんとコンタクトをとることは、一見、不思議ではない。
 ただし、ここで不可解なのは、両者の放射線に対するリスク認識への立場は正反対であった、ということだ。
 先に書いたように、危険派と安全派に二分される中で、私の立場も安全派ではあった。とはいえ、私は、量に応じてリスクはあるとみなし、社会状況にあわせて極端にならない程度に被曝量を減らすことは望ましい、という立場で、放射能が安全だ、という言い方をしたことはない。
 かたや、Bさんは、過激と言うくらいの安全派で、微量の放射線なら健康にいい、と主張さえすることもあったし、基準値を大幅に超えているキノコ類でも食べても差し支えない、と公言するような人だった。対する反原発活動家は、福島に住み続けることを支援する私の活動を「人体実験」とまで攻撃するような人だ。つまり、放射線のリスクという観点からすると、両者はまったく相容れない正反対の立場なのだ。なぜ、そのBさんが二人に、〇〇さんがエートスに関与している、とありもしないことを吹き込んだのか。

 私には、合点のいくことがあった。個人の特定につながるので、詳しい事情は書かないが、かんたんにまとめると、私は、Bさんが得たかったポジションを得てしまったのだ。そのことをおもしろくなく思っていたBさんは、活動家が私への猛批判を始めたときに、これこそ意趣返しの絶好のチャンスとおもい、私への攻撃材料となる情報を提供した、というわけだ。

 考えてみれば、活動家も「〇〇さんがエートスの活動にかかわっている」と「福島の人から聞いた」と繰り返し書いていた。「福島の人」と言っても、当時の福島県人口は200万人だ。200万人いれば、なかには、いいかげんなことを言う人だっているだろう、とさして気にも留めていなかったのだが、やけに自信満々に言っていたのはこういう事情だったのか、と一連の騒動のすべての謎が解けた気がした。それと同時に、ひどく脱力した。

 つまり、あれだけの大騒動になった背景にあったのは、実に卑小な個人的な欲望だったのだ。刑事告訴に至るまでの誹謗中傷から、刑事告訴を終えるまでの一連の経緯に、私は大いに心を悩ましたし、またリソースも費やした。ただ、半分は、これだけの巨大な社会的事象に出くわしてしまったのだから、これもやむを得ない、こういうこともあるだろう、と淡々と向き合ってきた。それも、原発事故という歴史的事象だから多少の社会的混乱は起きるものだ、という諦念に近い感覚があったからだ。
 だが、考えてみれば、件の活動家も、私に刑事告訴された後、「世界ではじめて放射能への危険を訴えて刑事告訴された活動家」として自己宣伝し、カンパも募っていたではないか。実際に、個々の人間を駆動させているのは、リスク認識の違いや社会正義ではなく、ましてや歴史的感覚なんてものでもなく、自分が功を成し、他人を追い落とし、自分だけが認められたい、そんな欲動にすぎなかったのかもしれない。

 Twitterというメディアは、ひとりひとりの内面に潜めておけば卑小なままである欲望を広く解き放ち、無際限に膨張させ、それがあたかも公共の大義であるかのように振る舞わせる作用がある。原発事故という世界的に稀に見る大事件に出くわし、これは自分が名を成す千載一遇のチャンスだ、と思った人は、実のところ少なくはないのだろう。それは、個々のうちに秘めておけば、個人を駆動させる内なる動機だ。だが、Twitterでは、それを気軽に表出し、共有するうちに、まるで公共的ななにか意義のあるものであるかのようにすり替えてしまうのかもしれない。本人さえ気づかないうちに。

 原発事故のあと、私たちは、放射能のリスクの問題について、しばしば激しく言い争ってきた。その論争は長く続き、私たちの社会に深い亀裂を残した。だが、実際のところ、それを駆動させていたのは放射能ではなく、リスクでもなく、個人の卑小な欲望であったのだとするなら、私たちはいったい何を言い争ってきたのだろうか。

 そう感じた私は、その後、放射能のリスク論争に限らず、Twitter上で行われるすべての論争への興味を失った。結局、誰もが、なにかを議論するふりをしながら、個々の欲動を言い換えて表出しているにすぎないのではないか、そう強く疑うようになったからだった。

 この件は、もうひとつ、私にそれまでに降りかかった出来事への新しい視座を与えた。ジェンダー問題だ。

 振り返ってみれば、原発事故以降、似たようなことはくりかえし起きていた。私の活動が進展し、ささやかな成功を収め、社会的に評価されるに従って、一定の距離にいる人が「あいつは卑怯なことをして、自分の手柄を横取りしたのだ」と言いはじめるのだ。言うこと、することは毎回決まっている。いかに私が信用できない、ずる賢い人間であるかを周囲に触れ回る、私本人には決して言ってこない。本人のいないところで、私の近しい人間に、そういう評判を広げようとするのだ。
 私も聖人君子ではないので、至らないところが多々あることは否定しない。だが、それにしても、言い立てる人の言い分はあまりに理不尽であった。

 これまでに何回か経験している、この手の嫌がらせ主は、一回を除いて、すべて相手は男性だった。そして、男性が「あいつは卑怯な女だ」と言い出した場合、女性は圧倒的に不利な立場に置かれる。なぜなら、日本社会では、男性と女性の言い分が違った場合、男性の方が信用がおけると自然にみなされるからだ。男性の方が、飲み会などを通じて、強固な仲間グループを作りやすいこと、また権力を持っていることが多いことも悪く作用する。飲み会のなかで、私の非道さを酒の魚にして飲むのだろう。家事や育児に忙しい女性は、飲み会に参加できる人は多くはない。男ばかりの飲み会を通じて、私の悪評は広げられていく。
 その結果、私がほとんど面識を持たず、私たちの活動を詳しく知りもしない人から、「ああ、あのズルしている人ね」のような反応を得ることが、しばしば起きるようになった。
 冷静に見てくれる人も、いいとこ「個人間の係争」「喧嘩をしている」「喧嘩両成敗」としか思ってくれない。最初の頃は、反論をしようとしたこともあったけれど、やり返せば、それは私の「悪辣さ」を証明するものと受け取られ、自分に不利にしかならないことに気づき、それ以降は、一切反応しないことにしている。従って、喧嘩も何もない。一方的に、相手が言い立てているだけだ。けれども、それでも「喧嘩したんでしょう?」という反応にしからならない。

 女性が組織の中で昇進したり、社会的ポジションにつけないことを「ガラスの天井」という。私の感覚から言えば、そんなお上品なものではない。ガラスという表現が、「目に見えない障害」という意味で使われているのだとすると、「ガラスのゾンビ」とでもいう方がよほど実態をあらわしている。
 成功すればするほど、世に受け止められている役割規範を踏み越えていこうとすればするほど、次々と襲いかかられる。「ゾンビ」と表現したのは、目の前の人が、役割規範を踏み越えたと判断した瞬間に、態度を豹変させて襲いかかってくることが頻発するからだ。それは、ゾンビゲームで、ゾンビに噛まれた人が自分もゾンビに豹変して襲いかかってくる様と酷似しており、対応しても対応しても、次から次に人を変えてやってくるところも同じだ。

 男性に同じようなことが起きないとは言わない。こうしたことが起きる背景には、私たちの持つ社会的な役割規範意識が強く影響しているからだ。「女性は控えめにあるべきだ」「女性は男性よりも能力が劣る」という無意識の性別役割規範意識が、その規範を侵犯した人間に対して、なんらかの懲罰を与えようとする。これは、性別のみならず、それぞれの社会が持つ規範意識(人種、民族、出自、外見、学歴などなど)に応じて発動される。日本はとりわけ、「身の程をわきまえる」という言葉に象徴されるように、役割規範意識が強固に存在する社会であるため、社会制裁が発動されやすい文化である、といえるだろうし、それが日本社会の息苦しさをいや増しにしていることは疑いないと思っている。

 前回、私が科学の敵とみなされて、攻撃を受け始めた経緯を書いたけれど、私が本来は科学者に庇護されるべき被災者の位置にありながら、その庇護から離れ、主体的に振る舞いはじめるという被災者=被害者として期待されていない行動をとりはじめた、ということも大きく影響していると感じている。
 私が女性であるが故に、被保護者であるべきだ、との先入観を持つ人はなおさら多かったであろう。人々の期待を裏切れば、罰せられる。罰せられなくとも、無視される。逆に言えば、人々の期待通りに振る舞えば、支配的な言説空間を構築することが可能である、ということでもある。

 これについて最後に書いて、Twitterのおもいで話を締めくくることにしたいと思う。

(続く)

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