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復興と子供 (2月10日追記あり)

 ソーシャルメディアでは断続的に言ってきたのだけれど、復興と子供についてまとまった文章を書いたことはない。少し前の話ではあるけれど、私以外には書けないだろうと思う話をいくつか聞いたこともあって、少し書いてみることとする。

 率直に言って、福島の復興政策に関連する子供の扱いは、私のまわりの親世代の間では、かなり評判が悪い。「評判が悪い」程度で済めばいいのだが、「激怒している」と言ってもいいかもしれない。かくいう私もその一人だ。私の場合は、2017年から怒り続けているので、「遷延性激怒(せんえんせいげきど)」とでも呼べるかもしれない。こんなところで新語を作ってもしょうがないので、呼称はとにかくとして、長く怒っている、というところから話を始めたい。

 怒っている理由は、端的に「復興(アピール)に子供を使うな」という一言に尽きる。福島の経験を伝える、福島の現状の学びの機会を与える、正しい状況を知る、それぞれの目的におかしな点はないし、異論はない。
 一方、実際のところ、その背景にある大人の意図は、子供の学びなど主目的にしていない、というところが問題の中心となる。つまり、「教育」の名を借りて、子供を自分の願望や期待を満たすために利用しているのではないか、という点を指摘したいのだ。

 思えば、違和感を抱いたのは、2011年か2012年か、震災が起きてまもない時期だった。地元のニュースで、避難区域にあった高校の卒業式が避難先で行われたと伝えられた。その中に、来賓として祝辞を述べた地元自治体の首長が、「私たちのこの無念をあなたたちが引き継いでほしい」と涙ながらに訴えた、というのだ。記憶で書いているので、細かな文言は違っているかもしれない。
 それを聞いた時に、わたしはひどく腹が立った。原発事故直後で避難の混乱の渦中という事情はあったとしても、それでも、人生に一度の晴れの式典の場で、主役の子供達にこんな「呪詛」の言葉を送るなんて、非常識にも程がある、ということがひとつめの理由だ。
 もうひとつは、そもそも事故が起きたのは、年長世代がぼんやりしていたからで、子供たち世代はその飛んだとばっちりを受けているだけじゃないか、というものだった。事故の責任は、あなたたち世代にあるのに、その後始末を子供達に押し付けるのは、あまりに無責任というものじゃなかろうか。筋としては、まず、私たち世代が不甲斐ないばっかりに大変な思いをさせてしまって申し訳ない、と詫びるべきだし、その後、私たちも可能な限り後始末をしますが、それが叶わないときはすまないけれどもよろしく頼む、ならまだわかる。まわりの人も、どうしてこんな「年寄りのわがまま」を同情的に伝えるのだろうか。
 いま思えば、これが出発点だった。

 それから時間が経ち、2017年頃を境に、高校生が復興活動に参加するようになった。それまでは、放射能への忌避から未成年が、福島の復興にかかわることはなかった。福島の放射線量がほぼ確認されたその時期に、大きな変化があったといえる。高校生が参加し、学びの場を与える、正しい知識を得る、復興に貢献する、それぞれの目的には異論はない。
 子供がシーンに入ってくると、雰囲気は華やぐ。メディアはこぞって注目する。全体に前向きな雰囲気になる。大人も妙に活気付く。誇らしげに話す子供たち。華やかな場でみんなの注目を浴びながら自分の経験を話す、貴重な経験を、田舎の子供にもさせてやりたい。ますます反論するところはない。
 だが、実際によく見てみれば、子供たちは周囲の大人の反応を見て、大人に褒められるように振る舞っているのがありありだったし、子供達が自分で考える力を育てる、という意味での「学び」よりも、大人が求める方向に誘導していく志向性も散見していた。ただそれでも、「子供達がそうしたいと希望している」と言われれば、やはり反論できないところはあった。いや、そうは言いつつも、大人たちは、「教育」を口実に、都合よく子供達を「利用している」のではないか。そう思いながら、あまり表立っては言わないまま、時間が過ぎた。

 それから何年か経ち、事故当時の「子供」も成人を迎える時期になった。
 私も、次第に、彼ら、彼女らと話す機会を持つようになった。話すうちに気づいたのは、復興に熱心にかかわってきた当時の「子供」のなかに、どこか精神的に不安定な気配と、大人に対する刺々しい警戒心を持っている人がいることだった。その理由は、そのうちの何人かと深く話したときに、おおよそわかった。もちろん、事故そのものにも原因はあるかもしれない。事故後の避難などの複雑な経験も影響がないとはいえないかもしれない。だが、彼ら、彼女らの精神的なアンバランスさに直近で大きな影響を与えていたのは、事故後、大人たちに「利用された」という事実だった。

 以下に書くのは、私の推測も含めた記述になる。「自分のことかもしれない」と思われる方もいるかもしれないけれど、複数の人の話をよりあわせて、私の推測も含めてひとつの筋書きにしているので、経験そのままを反映していないことは、ご承知おきいただきたい。

 避難区域の子供たちの一部は、多感な時期を「特別な人」として過ごしてきた。復興シーンにかかわると、「特別な人」扱いはひとしおだった。避難区域出身です、といえば、周囲の目の色が変わる、対応も変わる。一挙手一投足に注目が集まる。人が集まる場でなにかいえば、あっという間にメディアが集まる。「ふるさとの復興に貢献したい」 自然にそう思っていた。その思いをいえば、周囲は色めき立った。誰かに思わされたのではなく、自分から、そう思っていた。

 だが、時間が経って、社会に出る時期が近づいてくる。まわりの人は、それぞれの人生の行き先を見つけていく。自分はどうしようか。復興に貢献したい、就職先は避難解除された復興関係で見つかるだろう。避難区域出身でない友人は就職で苦労している。自分は苦労しなかった。だが、もし自分から「復興」をとってしまったら、何が残るんだろう…? ふと気づく。復興をとったら、自分には、なにも残らない…。
 そう思って、これまでのことを振り返ってみたら、あれはなんだったんだろう? 避難区域出身といえば、大人もマスコミも寄ってきて、自分に注目を浴びせた。でも、あれは、私自身を見ていたのではなく「避難区域の子供」に注目していただけだった。たくさんの群がってくる大人たち。彼らは「がんばる避難区域出身の子供」を期待し、その答えを自分に求めてやってきた。自分も、それに応じていた。結局、自分は利用されていただけだったのではなかったのか? そして、いま、自分は「復興」以外には、なんにもない…。

 こういう話を複数から聞いた時、私は、申し訳なさに泣きそうになった。当時大人だった私は、子供を巻き込むことに、確かに違和感を感じ、憤りさえ抱いていた。だが、なにが問題なのかうまく整理できないまま、結果として、黙認してきた。そしていま、懸念していたとおりの物語が目の前で語られている。なにがなんでも「子供を利用するな」と言い張るべきだったのではなかったか。

 その後、期せずして、東京の大学で一コマだけの講義をしたあとにも、同じような話を、今度は東京の元「子供」の経験として聞くことになった。講義が終わったあと、教壇まで話に来てくれた彼女と、駅まで一緒に歩いた。
 彼女は東京育ちで、子供の頃に震災を東京で経験し、高校生の頃から被災地のボランティア支援活動にずっとかかわってきたのだという。やがて、しばしば主に行政が主催する集まりに呼ばれるようになった。被災地の将来を東京の若者と考えよう! 若者たちは被災地の未来をこう考える! 自分も支援活動は一生懸命だったし、被災地を応援したかったから、頼まれれば行って話をして、話せば、被災地の自治体の人とかもいい人だし、喜んでくれたんですけど、なんかそのうち、これってほんとになにか意味があるのかな、復興や被災地のほんとに役に立ってるのかな、って思ってきちゃって。そう思うと、自分も便利に使われてるだけなんじゃない?と思うようになって、なんだかなー、って。そういうのもあって、だんだん支援活動からも遠のいて、今はもうほとんどしなくなっちゃったんですよね。この先もたぶん行かないかな…。ちょっと被災地の人にも申し訳ないんですけど…。

 パンデミックが始まる直前、被災地中で、まるで毎日が祭りといわんばかりに、各種復興イベントが行われていた。嵩上げした住宅地には空き地が目立ちます。被災地の人口は減少したままです。そんなニュースが伝えられるごとに、それを打ち消すがごとくに、イベントの喧騒は勢いを増し、あたりをそれ一色で埋め尽くすがごとく、被災地を席巻した。
 まるで大音量のスピーカーから勇ましい音楽をかけ続けるような復興イベントの喧騒は、避難区域と東京、双方の元・子供達から漏れた、「ははは、自分、バカだったな…」との明るさを装った、力ない自嘲と対照的だった。私は、また申し訳なさに胸が潰れそうになりながら、伝えた。「悪いのは、あなたじゃない。この場合、絶対的に悪いのは、利用しようとした大人たちなんだから。絶対に、あなたが悪いんじゃない。」

 なぜ、こんなことが起きたのか。
 それがずっと不思議だった。私のまわりの親世代の間では、子供を復興に「利用する」ことに批判的な声は多く聞かれたにもかかわらず、それが行政サイドに広まることはなかったし、私は何度か違和感を直接、教育や行政関係者にも伝えたにもかかわらず、危機感はまったく共有されなかった。それどころか「いいことをしているのに、なぜそんなことを言うのだろう?」と怪訝な顔をされたり、「おっしゃることはわかりますが、子供達が主体的にやりたいと言っていることですから!」とまともに取り合ってもらえることはなかった。

 先日、以下の記事を読んだ時に、合点がいった。旧満州で、敗戦時に侵入してきたソ連兵に若い独身女性たちが差し出された、という話のなかで、著者は家父長制社会のなかで、意思決定をする男性層は女性を「所有物」とみなしており、誰にも所有が帰属していない「独身女性」をソ連兵に差し出すことにしたのではないか、と指摘している。

https://note.com/yuukaku/n/n097e9e416bce?sub_rt=share_pw

 これを読んだ時、子供についてもそのまま当てはめられることに気づいた。家父長制の強い日本社会では、少なからぬ人が無意識に子供を大人の「所有物」であると認識している。独立した個人だとは思っていない。だから、そういう人にしてみれば、子供は、自分とは別の人生を歩む別個の存在であり、違う考えをもち、自分の感じることとは違う受け止め方をする、という発想が根底からないのだと思う。だから、大人の自分の期待するとおりに子供が振る舞うのは「よいこと」であり、実は、それは子供に対する無意識の押し付けであったり、それによって子供が傷つくこともある、と思いが至らないのだ。
 子供を利用しているとしか思えないのに、驚くほど、屈託なく、良心の呵責をまったく覚えていない様子に、指摘している私の方がおかしいのか、と思うことさえあったのだけれど、この記事を読んで、ようやく合点がいったのだった。

 そして、このことには、福島県内の公務員・教員の管理職、議員に占める女性の割合が非常に少ないことが大きく影響していると思っている。なぜなら、子供を復興に利用することに強い拒否反応を示している人は、女性にとても多いからだ。少なくとも、私の話した範囲の子持ちの女性で、それを好意的に話している人はほとんどいなかった。
 福島県庁の管理職に占める女性の割合は12%、自治体平均で13%、福島県内の教員における女性管理職の割合は11.7%、市区町村議会平均9.4%、県議会10.3%と、全国でも軒並み最低レベルの比率になっている。
 また、世代差もあると感じる。私たちと同じかそれより下の世代になると、男性でも、子供を「使う」ことを批判的にみている人は少なからずいた。つまり、福島県内の意思決定において、女性や若年世代の意見の反映のされなさが、ここにも出ているのではないかと、推測している。

2月10日追記

 最後に、私がよりどころにしてきた避難区域の女性の言葉を書いておく。
 自分の子育てを終え、息子2人を県外の大学に送り出したという女性は、電話口ですっかり酔いのまわった口調で私に言った。

 私はね、子供は好きに生きればいいと思うのよ。被災地とか、避難区域とか関係なく、ほかの地域の子供達と同じように、自分のやりたいことをやればいいのよ。地元に残って復興を支えなきゃ、とかそんなの気にしなくていいの。県外に行きたいなら行けばいい。私は、息子2人ともにそう言って、県外に送り出したから。
 でね、息子たちには言ったの。こっちに戻ってこなきゃ、とも思わなくていい。自分の暮らしたいところで暮らして、働きたいところで働いて、誰かの力になって、そこで税金を納めて、そうやっていれば、まわりまわって、それがここを支えてることになるんだから。どこでもいい。誰かの役に立てば、それでまわりまわって、故郷の力になるの。だから、戻ろうなんて思わなくていい。
 それでもね、もしなにかこっちに戻ってやってみたい、と思うことがあったなら、その時には戻ってくればいい。こっちはこっちで、戻ってきてもいいようにがんばるから。
 息子たちにはそう言っているのよ。


 I fully agree with her.


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