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福島復興あれこれ:記憶が不在の街

 双葉駅前に初發神社という小さな神社がある。震災のときに社殿が傾き、社の名前を刻んであった石標も折れていたものを氏子さんたちがもとの形に再建して、いまは端正な姿を取り戻している。

 昨年、双葉駅前に行く用事があったときに、たまたま氏子さん何人かが同席していて、ご案内していただくことがあった。どこが壊れていたのをどう直した、という解説をしながら、自然と会話の合間合間に、昔話が挟まれる。神社外周の玉垣に刻まれた名前を見ながら、この人はこうで、おやこの人も寄進していたんだな、からはじまり、境内には土俵もあってそこで相撲をしていたという話から、祭りの話、子供の頃に神社で遊んでいて大人に怒られた話、思い出話は尽きない。

 双葉駅前は地盤が弱かったせいかもともと地震の被害も大きく、地震直後から倒壊したり、斜めになっていた建物も多かった。いま、再開発が進んで更地が増えていくなかで(駅近くにあった知人の家も更地になっていた)、初發神社だけは元のたたずまいをとどめている。

 話を聞きながら、もしこの神社がなくなっていたら、氏子さんの思い出話をわたしが聞くことがあっただろうか、とふと思った。

 おそらくありえなかったろう。氏子さんたち本人だって思い出すことはなかったかもしれない。それくらいにささやかな、小さな思い出話ばかりだったのだ。けれど、その記憶が氏子さんたちにとっては、かけがえのない大切なものであることは、愉快そうに語る口ぶりと記憶を共有する氏子さんどうしの親密な語り口からよくわかる。あれはどうだったけ。なに言ってんだ、これはこうだったろ。ああ、そうだったけかな。そうだったよ、まったくすぐ忘れるんだから。いつの時代どの場所でも無限に繰り返されただろうやりとりを見ながら、考えていた。なにかきっかけがなければ思い出しさえしない小さな記憶の集積によって、わたしたちはアイデンティティを構築し、小さな歴史を共有している。

 風景は、記憶の引き出し箱だ。
 人間は、視覚優位の生き物といわれる。取り入れる情報量のかなりの部分を視覚に依存している。(人間が取り入れる情報量の8割以上は視覚であるとも。) したがって、記憶も視覚と紐づけられていることが多くなる。なにか目に見えるものをきっかけに、思い出が呼び覚まされることは少なくない。それに比較すれば言語情報としての記憶は、そんなに強くは残らない。
 風景は、その風景を知る人の記憶がたっぷり詰まった引き出しの取っ手でもある。
 記憶は、個人の内面にとどまる。引き出し箱の中身は見えない。しばしば、引き出しがどこにあるのかさえ、忘れ去られる。風景は、引き出し箱の取っ手だ。ここに引き出しがあるのだと伝え、取っ手を引っ張れば、中身を確認することができる。引き出し箱のなかに詰められているものは、古いものもあれば新しいものもある。さまざまな年代のものが、ひとつひとつ、それぞれがそれぞれの形状をして、ぎっしりと詰め込まれている。
 そこに風景がありさえすれば、引き出しは残り続けるし、引き出しの中身は時に入れ替わり、時に失われつつも、保ち続けられる。いわば、記憶を共有するための紐帯であるとも言える。

 いま、双葉郡では「復興」の名の下に再開発が進んでいる。そのほとんどは、元の風景を完膚なきまでに失わせていくものだ。長い避難期間のうちに損壊した建物も多く、止むを得ない部分も多い。だが、「記憶の引き出し箱」としての風景の役割をあまりに軽んじている計画を見ると、重い気分になるばかりだ。

 新たにできる施設は、確かに今どきで洒落ていて都会的かもしれない。けれど、その風景は、かつてそこにあった記憶の引き出し箱を完膚なきまでに破壊し尽くすことを同時に意味している。

 こう思うのは、わたしが広島出身であることが大きい。広島は、原爆投下によってかつての町の中心部の景観をまったく失ってしまった。現在の広島を見ればわかるように、そこから「復興」はした。だが、それはかつてあった広島の街とは違うものだ。記憶喪失の街、と言えるかもしれない。(『海を撃つ』のなかには、「記憶が不在の街」と書いた。) 

 広島の平和記念資料館は2019年にリニューアルした。リニューアル後の展示で、足を踏み入れた最初に来館者が目にすることになるのが、戦前の、原爆投下前の広島の街の写真であることは象徴的なことに思える。なぜ、2019年という原爆投下から70年を経て、もっとも印象的な場所に戦前の写真が置かれたのか、置かれねばならなかったのか。そこには、ただの感傷をこえた、人がその土地で生きるとはどういうことなのか、共同体にとって歴史とはなにか、景観とはなにか、といった深い意味があるように感じられる。

 わたしの両親は広島出身ではない。したがって、親類縁者が広島にいたわけでもない。戦前の広島への思い入れもなかった。それでも、リニューアル後、平和記念資料館に初めて足を踏み入れて、戦前の広島の街並みの写真を見たときに、心が震えた。ずっと広島に暮らしてきて、なにか足りない、と無意識下に感じていたものがここにあった、わたしがほしかったのはこれだったのだ、と、なにかに撃たれたようにパネルの前で立ち尽くしながら、そう思った。

 双葉郡の荒廃の様子は、確かに痛ましい。だが、広島のように瞬時にすべてが焼き尽くされたわけではない。いくばくかは残すことができるものもあるだろうし、また、元の街並みを思い起こさせる都市設計だって十分に可能だろう。

 いまさらではあるけれど、あまりの様子に見るに見かねて、ひとこと書いておかずにはいられなかった。「ふるさとを取り戻せ」と擦り切れたテープのように繰り返すけれど、みんなの記憶の引き出し箱を廃棄した先に、取り戻すべき「ふるさと」はほんとうに存在しうるのか、考えてもいいのではないだろうか。

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