呪いを、祝いに
祝 と 呪。
この二つ、まったく別の意味なのに、どちらもつくりが「兄」で似ていますよね。
「祝」は、祭壇の前で祈りを捧げる神職者を象形した文字。
「示(しめすへん)」は神や祭りに関することを、「兄」は人がひざまづいた様子をあらわします。
「呪」も、もともとは「祝」とおなじく人が神前で祈りのことばを唱える様子をあらわしていました。
「口(くちへん)」は、口から発せられる祝詞(のりと)を意味します。
では、どうして源は同じなのに意味が異なるのでしょうか。
祝詞には、しあわせを祈る祝詞と敵に勝つための祝詞があったそうなのですが、そのうち、しあわせを祈る時は「祝」を、不幸を祈る時には「呪」が使われるようになったそうです。(漢字源より)
祝いと呪いは表裏一体なんですね。
ということは、人のことばも受け取りかた次第で、祝福にも呪いにもなるのでは?
人からもらうことばだけでなく、自分で発することばもそうですね。
知らず知らずのうちに自分で自分にかけた呪いを、一つずつ祝いにかえていけたら、もう少し前向きに生きてゆける気がするのですが、どうでしょうか。
受け取りかた次第。
この世界はいつもわたし次第なのだな、と思った夜でした。
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