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「この街では、心か肺のどちら一方が先に腐る。」in 東京

ー都市では、すべてが混ざりあって進む。善と悪も、美も醜も、高貴さも低俗さも、何もかもが二面性をもたないでは、都市では存続さえも不可能なのである。

だが、そうであるからこそ、都市では、何ごとであれ新しいものが、次々と創造されるのにちがいない。悪を背中にあわせもたない善は、ほんとうの善ではないのだし、醜を見ない人のつくる美も、真の美にはなりえない。また、低俗の泥沼だからこそ、真に高貴なるものを生む土壌になりえるのである。ー
(P. 312ー313 塩野七生著 『小説 イタリア・ルネサンス 2 フィレンツェ』)


東京という街を、再訪するなかで想うことは、わたしが、今回の記事の題名に記したとおり、人間がもつ朗らかな本来的精神としての心か、あるいは呼吸を司り、酸素を体内に吸収する機能を担う肺のどちらか一方が、先に腐敗するのではないかという危惧でした。

イタリア在住作家、塩野七生が描く小説のなかで、上記引用文のとおり都市がもつ二面性、いわばコインの表裏が描出されています。

今回の東京への旅のなかで、塩野七生によるこの一文が、常に意識の片隅にあったのは事実です。

華やかなりし一国の首都、我が国日本の政治と経済の中心にして、極東の国際都市TOKYO、その街に若き人々の夢は託され、ごく一部のものは成就し、多くのものは無惨と冷酷のうちに切り捨てられてきました。

肌感覚として感じたのは、新自由主義、新保守主義の旗のもと推し進められてきた数々の変更 ーそれは多くの人々の生活を大きく下方修正し、一部の人々を喜ばせるだけに過ぎなかった企てーについてです。

増加の一途を辿り続けた派遣社員、非正規労働者の総数、戦後日本が積み上げた社会的蓄積の取り崩し、または政治と経済に見受けられる混迷と腐敗。

一見煌びやかな都市の放光も、そんな人々の苦しみを背景として一層その輝きを増すかのようです。

首都にある人々は、自らの基盤が、徐々に侵蝕をうけてきたことに無自覚であるようで、ただ眼前の消費と、過ぎ去るニュースとを眺め、周囲の人々からの視線を意識して着飾り、自らの生理的なニーズを満たしながら冷たく生きていました。至言するなら「人心の荒廃」という一言に尽きる。

翻って、今年の夏に訪れた沖縄本島と石垣島では、人々は柔和で朗らかで、人間のもつ本来的で自然な姿勢を強く見る思いがしました。

ただ東京の郊外には現在でも、90年代、2000年代初頭にはあった「まだ日本人が豊かでまともだった頃の」目に見えない良識というものが残っていました。

大きく東京を取り巻く人間社会は、階層化されてしまい、それは人々の団結を阻み、人心には無関心が蔓延し、人々は空疎なる心を、他者との比較と消費により埋めようとしているかもしれません。誠意の部分的な欠如、都市のもつダイナミズムの一面と言えるでしょうか。

(続く)


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