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〈焼き畑〉コース総括!/〈焼き畑〉運動論改

 もう今年度も終わろうとしている。この文章では、東北大学〈焼き畑〉コースの今年度の〝活躍〟を振り返ってみたい。そして、発足が宣言されてからの半年間に行なった活動を踏まえつつ新たに叩き直された〝運動論〟を披露することとしたい。「テメーの身の上話なんてどうでもいいから、その〝運動論〟とやらだけ教えろ」という熱い諸君は最後のほうだけ読めばよろしい。また、近いうちにもう少し〝理論〟っぽくまとめた文章も用意する。

 2022年8月15日、「東北大学教養学部〈焼き畑〉コース」は「〈焼き畑〉コース創設!/〈焼き畑〉ってなんだ!? これだ!」を公開、発足を宣言した。同時に、現〈焼き畑〉コース・コース長である私がそれまで運営していた「東北大学アナーキズム研究会」は解体された。「解体」と言ってもメンバーらしいのは私ともう一人だけで、研究会を創設した私は〝独裁者〟呼ばわりされていたのだが、〈焼き畑〉コース結成を持って、正式に〝コース長〟という地位に収まったのである。
 この「発足宣言」の時点では、「東北大学教養学部〈焼き畑〉コース」を名乗っていたが、今では「教養学部」を除き、「東北大学〈焼き畑〉コース」を名乗っている。「冷静に考えて〝教養〟とかどうでもよくね? 名前長いし」と思ったからである。関連して、詳しくは後述するが、アナーキズム研究会期も含めたこの1年間の経験から私は、「読書会なんかいくらやっても意味がない」という結論に至った。

 発足して最初の活動は「夏の特別企画」と銘打った二つの読書会である。「読書会なんかいくらやっても無駄だ!」と言った舌の根の乾かぬうちに、それらが〝成功〟であったことについて述べなくてはならないことに、矛盾を感じて前言撤回したくなったりは別にしない。
 1つ目は、橋口昌治『若者の労働運動』読書会である。3日間、『若者の労働運動』をテキストに議論を交わした。ここでの議論は白熱し、「人を熱くする」という今も変わらない〈焼き畑〉の理念から言って、それは〝成功〟に他ならない。議論の様子は、すでにnote記事としてアップロードしているので、そちらをご覧になってもらいたい。
 2つ目は、「ポストモダン思想詰め込み修行合宿」である。約1週間、1日1冊のペースで「ポストモダン思想家」(について)の著書を読み、議論を交わした。参加者の募集を始めてから、「ポストモダン思想」なんて掲げてやってくるのは熱く(なってくれ)ない〝ただのインテリ〟なのではないかと心配していたが、実際には〝熱い奴ら〟が集まり、議論の中でお互いの情熱を高めていたので、これも〝成功〟であった。

 これだけ〝成功〟を語っておきながら、しかしそれでも読書会の〝有効性〟の低さは強調しておきたい。この半年間で〈焼き畑〉コースの〝運動論〟は変化したが、「とにかくできるだけ多くの者を巻き込んで熱くしていく」という核心にぶれはない。その理念を実現するにあたって、読書会という戦術はあまりに分の悪い賭けなのである。
 読書会に来るようなのは多く〝ただのインテリ〟である。〝インテリ〟という属性自体は熱くなるかどうかと無関係であり、当然〝熱いインテリ〟や〝熱くなるインテリ〟はいるが、しかし一方で〝インテリ〟読書会は単に〝知的に厳密な〟議論に向かう傾向にある。また、〝インテリ〟は大学に居場所がある場合も多い。詳しくは後述するが、大学に対して摩擦を感じたり、学生というアイデンティティに対して違和感を覚えたりすることのない者に、熱くなる契機はない。あるいは、テキストによっては、〝政治オタク〟が来る可能性もある。はっきり言って、〝政治オタク〟にほとんど見込みはないだろう。だって〝オタク〟なんだもの。
 このように読書会に人が来たとしても、読書会というものに魅力を感じる層自体が限定されており、またその層は熱くなりづらい。さらに、読書会ではアプローチできる者の数には限界がある。
 さらに、そもそも私が提示する〝運動〟には、小難しいテキストを読んだり、人を集めたりする必要がない。〈焼き畑〉の〝運動〟が持つこの特徴については、最後のほうで詳しく述べる。しかし、〈焼き畑〉の理念に賛同するかどうかに関わらず、読書会をし(ようと思っ)ている諸君は、何のために読書会をするのか、そもそも読書会をする必要があるのか、一度胸に手を当てて考えてみてもいいだろう。

 読書会が無意味なら何をすればいいのだろうか。(言葉にしてみるとマヌケな問いである。学生がアカデミズムの外ですることは読書会しかないかのようだ。)ここで重要なのは「じゃあ、読書会以外の方法でどうすれば人が集められるか」という問いにすり替えないことである。問うべきは人を集める手段ではなく、人を集めるという目的のほうである。つい先ほども言ったが、読書会をしている諸君は、自分が一体なぜ読書会をしているのか、思い出してみるべきである。人を集めるため? では、その人集めは何のためにやっているのか。
 〈焼き畑〉の理念においては、人を集めることは目的ではない。熱くすることが目的であり、また、熱くなった者を〈焼き畑〉コースという組織に組み込むことは目的ではないからである。では、以上を踏まえて問い直そう。読書会以外の方法でどうすれば人を熱くすることができるだろうか。

 〈焼き畑〉コースの答えは、「とにかく〝風景〟を〝切断〟すること」である。せっかくだから「ポストモダン合宿」の成果も雑に活用して説明しよう。合宿で最も我々の心を熱くした、(ゆえに)きっと大思想家であるに違いないランシエールは、「ここには何もありませんから、立ち止まらず進んでくださーい!」と〝交通整備〟をする働きを「ポリス」と呼ぶ。例えば、私のように〝学生の本分〟を忘れて不毛なビラを貼ったり(後述)おでんを配ったり(後述)している余計者はいないものとして見なされる。そして、ランシエールはこの「ポリス」を〝切断〟することを「政治」と呼ぶ。「ここには何もありません!」といって交通をスムーズにする働きに対して、「ここには俺がいるだろ!」と言って、交通を妨害する。これが〝切断〟であり、ランシエールのいうところの「政治」である。
 これを〈焼き畑〉コースにとっての戦場であるキャンパスに応用するとどうなるか。「ポリス」とは大学である。大学当局というより、キャンパスである。大学当局も「ポリス」的な働きを担っていることは間違いないにせよ、〝切断〟すべきはキャンパス空間全体である。大学という「ポリス」の働きは、就職するでも豊かな教養を育むでもなんでもいいが、とにかくそういうどうでもいい目的に学生が従事することをつつがなく可能にすることである。
 「ここには何もありません! 安心して、学業に勤しんでください!」そして、その表れはこの小綺麗なキャンパスである。そこには〝目を引く〟ようなものは何もなく、一切は単なる〝風景〟である。学生たちは何にも余計なものに興味を惹かれることなく、スムーズに快適に4年間の学生生活を過ごす。そして、このような空間は学生の心を〝無風〟にする。あるいは、不愉快に。
 このキャンパスの〝風景〟に不愉快を感じる者は熱くなる可能性を秘めている。というより、この不愉快の感覚をこそ、私は〝情熱〟と呼んでみたい。〈焼き畑〉コースは、キャンパスという退屈な〝風景〟を〝切断〟し、学生たちを立ち止まらせる。そして、学生たちのスムーズな流れを一瞬停滞させる。〝風景〟が綻びを見せた一瞬、流れが寸断された一瞬、〝情熱〟を秘めた彼ら彼女らは、〝風景〟の〝切断〟が自らの手で可能であるということを知る。これは一種の「スキャンダル」である。

 さて、抽象的な詩的表現はこのくらいにして、読書会が無意味だとわかった〈焼き畑〉コースが実際に〝風景を切断〟すべく行なったことを紹介しよう。ビラ貼りである。ただビラを貼っただけではない。それだけでは〝風景〟に溶け込んでしまう。〈焼き畑〉コースはビラで掲示板全体を覆った。

これらのビラはすべて画鋲で止められている
遠くからでも目立つ

 このビラによる掲示板の〝占拠〟は2回行なった。一度目は10月2日。コース長直々に早朝のキャンパスに乗り込み一人で200枚貼った。これを見て、実際に熱くなった友人から「次やるときはぜひ呼んでくれ」と連絡があり、10月12日、コース長ら3人で400枚のビラを貼った。いずれもすぐに剥がされてしまったが、そもそも〝切断〟は持続することを必要としないのである。
 以上のようなビラ貼り戦術については「横浜国立大学都市社会××学科」に負うところが大きい。詳しくは××学科の『完全学科長マニュアル』を参照されたい。一方で、詩的表現は明らかに〈焼き畑〉コースのほうが優れているので、文学青年な諸君はこちらで胸を熱くすればよい。

 〈焼き畑〉コースの活動ではないが、大学という〝風景〟に一石投じたものとして今年度の出来事を一つ挙げておこう。「東北大学ミスコン2022粉砕宣言」である。10月下旬、東北大学祭の数日前に川内キャンパスの掲示板に「東北大学ミスコン2022粉砕宣言」と題されたビラが貼られた。先に述べた通り、「粉砕宣言」の〝実行犯〟は〈焼き畑〉コースではないのだが、どうやら「粉砕宣言」掲示のきっかけは私の発言であるらしく、また後述の理由から私も大いに協力した。
 〝実行犯〟氏自身が認めるように「粉砕宣言」の内容はやや稚拙である。しかし、私は「粉砕宣言」に対するSNS上の〝言及〟の数々に私が気分を悪くしたのと同時に、〝実行犯〟氏の行動は学生どもを強く刺激したという意味で〝風景の切断〟には違いないということで、「粉砕宣言」を支持することにした。
 それにしても、数百枚ビラを貼って掲示板を〝占拠〟したわけでもないのに、あれだけの、それも多くは否定的な反応があったことに対し、私は「みんなミスコンがそんなに好きだったのか!」と驚いた。同時に、累計で600枚貼った〈焼き畑〉コースのビラよりも、数枚の「粉砕宣言」のほうが多くの学生の琴線に触れたことを悔しく思わなくもない。学生どもにとっては、「ミスコン粉砕宣言」がスキャンダラスだったようだが、私としては学生どもがあれだけ反発を示したことのほうがよっぽどスキャンダラスである。
 この件について触れることは後にも先にもないだろうから、〝後続〟に向けてエールを送っておく。〝実行犯〟氏にとっても、私にとっても、「ミスコン」はどうでもいいイベントである。そんなある意味では不真面目ともいえる我々が「ミスコン粉砕」の先鞭をつけたことに対して、真面目な「ミスコン粉砕」派は、憤るのではなく恥じるべきである。「〝ミスコン粉砕〟という社会正義を掲げる者がいない状態は間違っている!」と義憤に駆られたりはしないが、これだけの数の学生がいるのだから「ミスコン」を疑問視している者はいるはずだろうとは思う。来年度は真面目な諸君によって「ミスコン粉砕」が「宣言」されることに期待する。
 ちなみに、気分を悪くした私は本当に「ミスコン」を〝粉砕〟しようと思っていた。今書いたように元からさほど「ミスコン」に興味がなかったので、面倒になって止めてしまったが。〝粉砕〟の作戦も立てていたが、ここに書いたことで来年以降〝粉砕〟対策が取られてしまうといけないので、真面目な「ミスコン粉砕」派の諸君のために秘密とさせていただく。

 11月10日、コース長はかねてより批判的に見ていた「哲学対話を行ったり学んだりする会」の活動に参加し、その〝粉砕〟を試みた。批判的だったとはいえ、やっている本人たちがそれで楽しいなら別にいいと思うので、いつもなら別にわざわざ乗り込んでいって〝粉砕〟したりしないのだが、今回は「哲学対話」の宣伝ビラに〈焼き畑〉コースへのあてこすりと思しき記述を発見したので、その挑発に応じて参加した。
 当日行ってみると、参加者は6人くらいいたと記憶しているが、誰も積極的に話し出さない。「やっている本人たちが楽しければ別にいいでしょ」と思っていたが、その「本人たち」が楽しくなさそうだったので、「こいつらなんでこんなことやってるんだ?」と思わずにはいられなかった。「ポリス」的に整備されたスムーズな〝対話〟を〝切断〟するつもりだったのだが、その〝対話〟が存在せず、容易に議論の主導権を握ることができてしまった私は、必然的にほとんど一方的な〝啓蒙〟をすることになってしまった。
 繰り返しになるが、人を集めて勉強会を行なう諸君はなぜそれをするのか、今一度考えてみたほうがいい。「哲学対話」は〝対話〟である以上人を集める必要があるのかもしれないが、しかしこんな有様では人を集めても意味がないだろう。

 さて、冬である。まだアナーキズム研究会として活動していた去年は、「とにかく人を集めれば何かが起こるに違いない!」と無邪気に思っていたので、昼に厚生会館前でおでんを配っていた。話しかけてくる人はいないではなかったが、戦史研の副部長だか何だかという奴に小馬鹿にされるし、受験生の親だという方から受験についての相談を受けるしで、実りはなかった。当時の私にとって「実りがない」とは、人が集まることはなかったという意味だが、集まってもどうせ何も起こらなかったであろうし、下手に人が集まってつまらないことを惰性的に続けることになるよりはよっぽどよかっただろう、と今では思う。

 そのまま年が明けて、2023年。寒すぎて何もできていない。しかし、この1年で親しくなった屈強なベテランの元学生活動家も、「東北の冬にキャンパスで運動は無理だね」と言っていたので、大人しく諦めている。彼のいう〝運動〟に比べると、私の〝運動〟なんかは非常にお手軽なのだが。
 そんな冬の間も、〝情熱〟を共有する友人諸氏との議論により、〈焼き畑〉の〝運動論〟は洗練されていった。これまでの記述のなかにも断片的に含まれていたそれらの議論を最後にまとめていきたい。

 〈焼き畑〉コースの提唱する〝運動〟は〝組織〟ではなく、〝切断〟である。逆に、〝運動〟と呼ばれているものの多くは〝組織〟である。「発足宣言」を見てみよう。

我々の究極的な動機は現実の社会に存在する問題に対処していくことです。そのような問題の解決を目指すなら、その問題に関して広く社会に訴えかける行為、すなわち「運動」が不可欠です。そしてその運動のためには仲間が、この情熱を共有できる仲間が必要です。仲間は待っていても見つかりません。我々は自分たちが最初に熱くなり、周囲にその熱を伝播させ、延焼させていきます。

「〈焼き畑〉コース創設!/〈焼き畑〉ってなんだ!? これだ!」

ここでは、社会問題の解決を目指す行動として〝運動〟が想定されている。つまり、〝社会運動〟である。そして、「発足宣言」の文面は、ともに〝社会運動〟を闘う仲間は〝探しても〟見つからないんだから、読書会でそういう仲間を〝作り出そう〟と言っているのである。言ってみればここでの主張は〝啓蒙による組織〟である。当時の私の思惑がどうであれ、ともかく文面ではそう主張しているのである。「社会をよりよくしたい」のなら、この〝啓蒙による組織〟が有効でありうる。しかし、そもそも今ここにいる私が「社会をよりよくする」主体になりたいのかと言われれば、私の関心はそこにはないように感じる。
 事実として大学生である一方で「大学生である」ということにアイデンティティを感じない、ただ「大学」という空間に投げ出されている今の私にとって不愉快なのは、毎日目にするこのキャンパスの〝風景〟である。すべてがスムーズに流れていく〝かのような〟キャンパスの様子。「終わらない日常」でも「デカい一発」でもない、ただ〝何か〟が当たり前にある日常というものがあるだけのはずなのに、驚くほど何もない。ここに〝何か〟を隠蔽する欺瞞の力学を感じ取らずにはいられない。そのスムーズな流れに押し流されながらも、その欺瞞に順応することもできず、日々苛立ちは募る。社会の不正義は闘いによって解消されるべきである。それなら、私の不愉快は?
 流れに順応できない場合、ありがちな〝解決策〟としては、その苦悩を共有する仲間と集まって〝居場所〟を作るというものがある。同じように苛立ちを感じている誰かがいないはずはない。探せば見つかる。
 問題を隠蔽する「社会」に対抗するそのような〝居場所〟があること自体は重要である。そのことは誰かを救いうる。それで〝救われ〟るならそれもいいだろう。しかし、私は別に〝救われ〟たいわけではない。不愉快な私を〝救ってほしい〟のではない。ただ、不愉快なのである。
 ここで私が提唱するのが〝切断〟である。それは、すべてがスムーズで円滑で快適、という欺瞞を告発することであり、流れを妨害し目を引く〝何か〟を演出することである。ものわかりの悪い一学生のわがままではない。私にとってそれ以外ではない私が不愉快なのだ。
 〝切断〟には人を集める必要がない。それは第一に、一人でも可能であることを意味し、第二に、集団や組織の維持といったことに手を煩わせずにすむということを意味する。人が集まると妥協が生まれる。流れに〝妥協〟している者こそが流れそのものである(不愉快を感じている当人も順応できないながらに流れに組み込まれているのだから、この点で流れの〝切断〟は自己破壊的でもある)。不愉快なキャンパスの〝風景〟を〝切断〟したいという〝情熱〟を共有できる者同士がするべきは、組織になることではなく、個別のまま互いにその情熱を高めあうことである。
 重要な利点は他にもある。〝勝ち〟を意識しなくていいことだ。我々のなすべきことはスムーズな流れを妨害することである。一回一回の妨害を持続させる必要はとりあえずはない。一瞬でも〝風景〟を〝切断〟することができればいいのだから、これ自体は難しいことではない。〝勝つ〟必要はなく、むしろ〝負け〟てもいいのである。負けても不愉快である限り〝情熱〟は消えず、すなわち〝切断〟は続くからである。
 〝勝ち〟を意識しなくていいというのは、何か特定の問題の解決を目標としないということでもある。ある問題を解決しようと思ったら、それ相応の戦略が求められる。例えば、〝大衆〟に訴えかけるといったことがそうだろう。しかし、我々にとっては今存在している〝大衆〟は〝切断〟すべき流れそのもの、欺瞞そのものである。場合によっては、〝勝ち〟のためにその告発を我慢することが求められる。「今だけ我慢すればいいから。」いつまで我慢すればいい?
 〝社会運動〟においてはそのような戦略は有効であろうし、社会問題を〝解決〟したいなら、そのような戦略を取る必要がありうるだろう。〝社会運動〟にはそれなりの〝運動論〟があり、私は〝社会運動〟に取り組む諸君には敬意を表する。しかし、それはそれ、私は私である。

 そろそろ文章を結ぼう。見かけばかりの空虚な大学での生活に日々苛立ちを重ねる学生は私だけであるはずがない。私は諸君に対し、〝連帯〟は一切求めず、ただ各人による〝切断〟を期待する。先述した通り〝切断〟には人は要らない。ただひたすらに自ら〝切断というスペクタクル〟を演出してみせれば、同じように苛立ちを抱える彼ら彼女らの〝情熱〟に火をつけうる。これのみが不愉快な我々に可能な唯一の〝運動〟である。

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