見出し画像

思い込みと葛藤の家事分担。

家事の分担。
このお題を見つけた時に、走馬灯のようにぶつかり合う我が家の修羅場が駆け巡った。
結論から言うと、我が家の家事の分担は
10:0(ないし9:1)である。
交通事故ならもはや貰い事故だ。
初めに言っておくが、2児を抱えながら家事をこの分担で行うのは殺人に近い。
男友達に我が家の分担を説明をする際には
「アイツは出来てる」というクソ文言を諸奥様方に言い放たないよう、「私がタフネススーパーマンだから成り立っているだけだぞ」と必ず念を押している。
ここに至るまでに、自分の思い込みが首を絞めた経験を書いてみようと思う。


憧れを捨てる

夫と一緒に暮らし始めた頃、私はシングルマザーとして1児を育てつつ、ほぼフルタイムで働いていた。
そこで家事は分担、仕事の出勤や帰宅に合わせて調整をしたいと考えた。
家事の内容や頻度、それらを説明し夫との分担を考えた。
効率的な方法で体系化された家事分担でチームワークを発揮するぞ!と意気込んでいた。

しかし現実は
「忘れてた!明日やる!」で一生行われないトイレ掃や風呂掃除。畳まれない洗濯物。次の日の朝もグッチャグチャの流し台……
指摘してようやくやるか、喧嘩になってお互い嫌な気分になる、というのを繰り返す羽目になる。
結局、出来ていないこと、足りないこと、喧嘩することに脳のリソースを割くことに辟易してしまい、一気に分担は崩壊した。
初めはその事に酷く絶望した。

「意地でもやるまで置いておくべきか」
「お互い仕事してるのに不公平すぎる」
「なんで私ばっかり」

などの不満がつのり、常にイライラしていた。
その頃にはもはや分担をするという目的よりも、夫がどれだけ言ったことをやらないかを、常に監視して逐一指摘することが目的のようになっていた。

自分でやる方が楽だった

しばらく理想の家事分担にこだわりつづけ、喧嘩を繰り返すうちに気が付いたことがある。
我が家の場合は、夫が同居するようになった時点で既に家事のメニューが固定されていた。それに則ってやるよう夫に求めていたが、生活が変わり、仕事が変わった夫には、それを頭に入れて決まった内容や頻度で行うだけのキャパシティがなかったのだ。
それに気付いて自分でやるようになっていくうちに、結局自分で全てやっていた事が、元に戻っただけだと気付いた。
そして、元から出来ていた事を分担して自分が楽できる!と浮かれていた事にも気付いた。
かくして、もう喧嘩するくらいなら自分のできる範囲で、できるような家事の仕方をしようと決意。
それからは「家事を依頼する」「依頼した事項が遂行されているか確認する」「その内容が適切であったか確認する」という作業から私は解放された。
夫は私からの「あれをやってない」「いつやるのか」「どうやってやったのか」という小言から解放されたのであった。
家事を全部やってしんどくないのか、と言われると、もちろんしんどい時もある。
しかし最初からやっていた家事量が大幅に増えた実感はないし、私は常にやる事がある方が落ち着くタイプの人間なのもあり、家事分担をしようとしていた頃よりも、むしろ大きな不満は無くなった。

なんで破綻しないのか

前述の通り私がタフネススーパーマンだから、というのが1番なのだが。
まずは「夫が文句を一切言わない」というのが大きい。
夫は掃除や洗濯、食事に至るまで、私の行っている全ての家事に文句を言ったことがない。
私が風呂掃除をサボり続けたら、サボり続けた風呂に何の感情もなく入り続ける。(衛生観がどうなってるのかは疑問だが)
なので家事に対するプレッシャーがない
どんなに料理に失敗しても、不味いの一言も言ったことはなかった
(余談だが前夫は洗濯の干し方や洗った食器の並べ方、掃除の頻度や料理の調理時間に至るまで、自分の一切やらない家事に対してトラウマレベルの指定をする人だったので、このプレッシャーがないことは私にとっては非常に大きい。)

それに加えて、夫は感謝を口にする。ご機嫌伺いのための謝辞だとしても、あるとないでは大きな違いである。
自分が定期的に夫が口にする「頑張ってるね」「いつもありがとう」の声掛けだけで強くなれるチョロい女であって良かったとすら思う。

後に気付いた「後ろめたさ」

堂々と「うちの家事は10:0」と言うまでには、振り返れば何やら後ろめたや罪悪感のようなものがあったように思う。
「共働き家庭は、家事は分担することが最良」
という風潮の中で、我が家は言わば「ダメ夫」と「いいなりの妻」のように思われるのでは、と勝手に世間体を気にしていた事こそが、私が家事分担にこだわってしまった原因であるように思う。
こんな地球上に億千万の人間がいる中で、「共働き家庭の全てが家事分担を行うことが正解」であるはずがないのに。
「家事分担をするのはよいこと」=「家事を分担すべき」
という間違った等式で、自分を苦しめていたのだ。
我が家の場合は、私が家事をサボりながらも全てこなしてドヤる。夫が誉めそやす。というサイクルで成り立っている。
世間一般でよい、とされている事に囚われず、そういう「分担」があってもいいんじゃないかと思う。

#家事分担の気づき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?