日本文化のユニークさ

「日本史の2元性、生成で良しとする態度、それに加えて、もう一つ日本史のダイナミズムとして指摘できるのが、神仏習合です。これは日本史のダイナミズムそのもので、日本には進歩とか革命とかで、文明の形がごっそり入れ替わることがなかった。新旧が交代することがなく、古層がずっと残存する。その上に新しいものが追加や補足として重なっていくと。これが日本史なのではないか。その典型が神仏習合で、神道が仏教に抵抗したわけでも仏教が神道を排除したわけでもない。神道の基盤の上に仏教が重なっていつの間にやら神仏習合になった」

関さんのいう2元性とは、ヨーロッパ、中国などの一神教、一元性から生まれる神/被造物、支配/被支配、統治/非統治という2元性が成立しない多元性と言えます。それは中心のない一つ、多様であり同時に一つであるという非二元でもあると言えます。しかしこのことを論じ始めると混乱しかねないので、引き続き関さんの用語に従って読んでいきたいと思います。

「古池や蛙飛び込む水の音は 芭蕉の有名な湖です。ここで古池は、今の流行語で言えばパワースポット、自然の奥深さが深く感じられる場所で、神道の感受性を示しています。これに対し、蛙飛び込む水の音、には仏教の余韻があります。生命は一瞬音を立てて万物の静寂を破って消えていく。この芭蕉の句では五七五のわずかな語句の中で神道と仏教が渾然と融合しています。これが日本文化です」

う〜ん、シビレる解釈ですね。関さん、思想家という道を犀の角のように独り歩んでいる聖者のようではありませんか。


「日本は儒教文化圏の国ではありません。日本日本人にとって儒教は書物教養以上のものではなかったと思います。江戸時代に官僚化した武士に要求された教養以上のものではなかったと思います」

この指摘も面白いですね。戦後日本にまだ残っている儒教的考えがいつも上から目線に感じられるのもそいいうことなんだなと得心します。

安倍政権やその取り巻きたちの戦前志向というは、明治というクーデター政権の流れであり、それは国を、ヨーロッパ帝国主義、特にドイツ帝国に習って(それはさらにヘーゲル、プラトンにまで遡る流れ)、国民を思想管理し、一元的に支配しようという本来の日本の伝統的感性とは相容れない発想であるという歴史的視野を、関さんによって教えてもらいましたが、そこに儒教的な教育勅語なども混ぜ込むことで、東洋的装いをこらしていること、そしてそれが嫌な感じ(笑)であることにも、納得がいきます。

関曠野「日本史を再考するⅠ」(『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか』所収)



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