サイエンズメソッド「自分を見るためのコース」の感想

一つ前の自分を知るためのコースで習った自分の考えを、それはそういうもんだと固定してしまう癖=「事実化」
今回、自分を見るためのコースに参加して、一緒に参加していたみんなとのやりとりの中で、自分が自分の考えをそれはそうだとしっかり決め込んで、それを前提として、考え、発言していることに気づいて、驚いた。ありゃりゃ〜。めっちゃ、自分の考えを「事実化」してるんだけど、俺。。。

これまでアズワンセミナー、自分を知るためのコースと続けて受けてきて、いつの間にか、自分がコースはこういう風に進めていくもんだ、それに従ってこういう風に探求していくもんだと決めつけて、それを前提にして、考えていることに気づいたという感じだった。

自分の考えで、目の前で参加者全員によって実際に起きているやりとりを、勝手に限定して、狭くとらえて、結論づけている自分に気づいた。
と同時に、自分で狭く限定して、結論づけておいて、それがつまらないなあと不満に感じている自分の反応にもはっきりと気づくことができた。

自作自演の狭い世界の狭さに不満を持ち、毒づいてる自分。
うわ〜、恥ずかしいいやら、笑えるやら、自分の決めつけにみんなのおかげで気づかせてもらうと急に楽しくなってきた。

さっきまで、頭の中がどよ〜んとして、眠気が襲ってきて、ときどきうつらうつらもしたりしながら、「一体、この問いにはどんな意図があるの?」、「スタッフはどこへ導きたいわけ?」 なんて、どんどん自分の考えを正しいものとして、あたかもそれは単なる考えではなく確実な「事実」のごとく決めつけて、その制限、観点から、目の前に展開されている世界を狭く恣意的に切り取り、解釈して、その自分のつまらない解釈結果に退屈して不満を募らせてる。
おそるべし自縄自縛の妄想ヴァーチャル世界とその妄想住人。
全部、自分が作ってやってる妄想自作自演世界なんですけど。。。。

まったく疑うことのなかった自分の考えが、単なる考えでしかないことにはたと気づくと、突然、目の前の世界が、自分の考えでは捉えきれることのない生き生きとしたダイナミックな世界として、立ち現れてくる。
「自分の考え」という透明な制限の枠に気づくと同時に、目の前に起きている現実が未知な開かれた世界として本来の姿を取り戻して迫ってくる。

ひとりだけでやる探求では、この自分の考えの「事実化」には気づけなかったなあというのが率直な実感。自分の枠から自分で自力で出るのはとても困難だなあと、今回の自分のありさまを振り返って思う。その困難さに比べて、安心して人に助けてもらえる場、人が自分に対していう発言に安心して耳を傾けられる場では、人に指摘してもらうことで自分の枠に気づくことは簡単なんだなあと痛感した。

一緒に心の深いところを探求するには、それにふさわしい深い安心感が必要だなと思ったし、深い安心感があれば、心の深いところ、自分の心の盲点に気づくこともかなり容易だし、それがとても面白くて楽しいことだなとも思った。

今回、「自分を見る」では、何かを見たり、聞いたりすることで自分の中に起こる一番最初の反応がどんなものであったかを、出し合った。これまで結構、いろんなことを自由に語り合ったり、話し合ったり、議論してきたつもりだったが、最初に起きた反応をそのままただ言葉にすることってちゃんと意識してしたことなかったなあと思った。これまで自分が出してたのは、最初の反応が起きて、その後、次々に起こる反応の連鎖、つまり最初の第1次反応を、隠そうとしたり、ごまかそとしたり、正当化しようとしたり、、開き直おろうとしたり、といった数々連鎖的に起きてくる2次、3次反応を外に表現してきたことにも気づいた。

それで最初の反応を、みんなの前に、言葉にして出して見ると、これが意外に面白い。

お風呂のお湯に毛が浮いていて汚いと思って、パッと外に掬い出した。
洗面所の手洗い場にゴミがあって、汚いっと体が反応した。
カーテンを見たら、開けたくなって開けた。
休み時間に散歩に出かけたら、前を同じ参加者の若い女の子が歩いてて、なんか跡をつけてると思われたくないなと歩くスピードを緩めた。
などなど。

自分の中に起きる反応をそのまま口に出すのって、2次、3次、、と続いてしまう反応を起こさず、そこで終わってしますから、無駄なエネルギーを使わずとっても楽だ。だいたい、反応は、自分がコントロールできず勝手に起きてるんだから、どんな反応が起きてもしょうがないよなあ、という健全な開き直りも起きてきた(笑)。

だって勝手に起きるんだから、俺に責任なんかこれっぽちもねえぞ、みたいな。

日本の近代文学の大きな流れの一つだった「私小説」ってこれだなとも、余談だけど思った。
「私小説」ってなんだか偉そうで高尚な文学って印象だけど、要は、作家が自分の1次反応を正直に出しまくってるんだなと思うと、とても納得がいった。2次や3次や、、、と1次の反応から離れていくと段々、自己正当化や隠蔽や捻じ曲げ、言い訳がましくなったり、居直ったり、開き直ったりとリアリティがなくなって、人工的で、作り物めいて、面白く無くなっていく感じがする。
それにくれベて1次反応は、生で、リアルで、面白い。
なんかやっぱり「私小説」っていいじゃん。21世紀の「私小説」が待たれるなって、かつて文芸編集にかかわっていたときの気持ちが蘇ってくるぞ。

話がそれまくったけど、自分の中で最初に起きる意図しない、自分ではなんともできない、やむにやまれない反応をただ口にですのって面白いゲーム、解放的なゲームだと思った。

でもそれができるのは、この場に、何を言っても大丈夫、受け止めてもらえるという安心感があるからだと、そこに戻る。安心して、反応を出し合うほどに、さらにみんなの中に安心感が深まっていく。安心感のポジティブフィードバックでどんどん安心感がこころを解放していく。
反応ダダ漏れ状態(笑)。

自分を見るということを、なんだかたいそうに大仰に深刻ぶって構えていたなと思う。
笑える〜。
という軽い感想で終わっていいのだろうか。。。
まあ、いいか、というのが1次反応。
2次反応が、笑い?
ここらでやめとこ。というのが3次反応か?

今回も、スタッフとして思いついたらなんでも話す感のある(笑)耕一くん、一緒に探求してくれたブラジルから来たななこさん、アカデミー生としてアズワンで学んでいるあやちゃん、ゆうきちゃん、アイラ、同じ部屋で寝泊まりし、いろいろと話した深田さん、ごはんのお世話をしてくれたまいちゃんに、こころからありがとう。
引き続きコースに送り出してくれる家族、友人に、こころからありがとう。
OSHO、あなたの夢が、日本の鈴鹿で一つの形をとって実現されようとしていますと報告できることを心からうれしく思います。

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