「いい子」の副作用 その1
あーなんだです。
生まれてこの方、「いい子になりたい!」という気持ちがありながら、「いい子になんてなりたくない!」という気持ちもあるという葛藤が、自分を突き動かして来たように思います。
この「いい子でいたい」ということの内実は、いい子でいたら、自分が親や周囲の人々から受け入れてもらえる、ということでした。
あーなんだは、弟と比較して親や近所の人にかわいがられていないと感じていましたし、学校でも一時期いじめがあったりして、親や周囲に受け入れられるかどうかが生存を左右するほどの重みがありました。
自分が自分にとってどうなのか?というところに全く力点は置かれない。
他者の視点から見てどういう自分なのか?ということだけが重要になっていました。
自分はどこにもいなくなってしまい、他者の目と評価だけが自分の中に充満している。。。
理由はどうあれ、そんな扱いを自分自身に対してしていれば、いい子なんてク○くらえ!と思うのも無理はありません。
どこまで行っても自分がどこにもいない。
オーバーかもしれませんが、灼熱の砂漠で、水が一滴もない状況が何年も何年も続くようなものです。
家や学校で安心感を持てない状況だったので、自分を置き去りにして、周囲に過剰適応して生き延びようとするのも仕方がなかったとは考えています。
でも、結局は砂漠を水なしでさまようようなもので、いい子になって自分不在となった副作用は大きい。
自分が何を感じているか分からない。
自分が何をしたいのか、したくないのか分からない。
自分がどこに行きたいか、行きたくないのか分からない。
こんな副作用があるままで、まともな人生になるはずもありません。
まずすべきは、いい子ではない、本当の自分自身に目を向けること。
自分の感覚を感じること。
あーなんだはこれが長らくできませんでした。
本当の自分がどこにいるかは自分にしか分からないのに、自分で気づくことができない状態でした。
むしろ、他の誰かに、自分がどこにいるのか気付いて欲しいとずっと思っていたような気がします。
このような状態からどうやって自分を取り戻していったのか、その2で書いてみたいと思います。
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