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ダイエットで自分は変わる(39)コトバでも変わる

人類はその誕生から殆どの時間をアニマリストとして過ごしてきた。共同で狩りをするにも、採集をするにも、人々の間にコミュニケーションが成立しなければうまくいかない。日本語はオリジナルの文字を持たない文明(!)であったが、さすがに話し言葉は太古より存在していたはずである。

もともとヒトが操る言語は集団ごとに数万、数十万と存在していたと考えられている。現にオーストラリア原住民は200年前に入植した時点で300種類以上の言葉を話していた。世界で今も広く話されている英語やヨーロッパ諸言語、アジア言語はかなり収斂した「似たもの同士」であるのだ。一方、少数の部族のみがわずかに生き残っているような集団の場合は、「似ていない特徴」を残している言語を持っている場合がある。

たとえば英語を話す人が「母親が子どもを入浴させている」画を見たときは、数ミリ秒以内に母親を認識する。無意識に母親を主語にした文章として世界を見ているのだ。ドイツ語は比較的に語順は寛容だが、同じテストを行うと多くの場合は注目する順番が決まっている(日本語も同じ)。一方でマヤのツェルタル語は文章の始めに動詞が置かれる珍しい言語であるが、話者は母親と子どもを同時に見る。状況を「入浴させる」動きの中で捉えていると考えられる。

さて、今回の話はさらに珍しい、文章の語順に制限がないムリンパタ(オーストラリア原住民アボリジニーの言語の一つ)の場合はどうなるかということである。彼らの言葉では母親入浴子ども、とか入浴母親子どもとか、なんでもありなだけではく、そのような複雑な状況を一語で表すことが出来る場合すらある(接頭語や接尾語など語形変化さた長い一単語を作る)。結果では「0.6秒程度で図の内容をすべて把握する」という驚くべきことが分かった。つまり、図の全体を瞬時に理解できるので、対象物に何らかの順位や重み付けをして整理する必要がないのだ。

https://www.scientificamerican.com/article/grammar-changes-how-we-see-an-australian-language-shows/

要するに、話す言葉の文法によって僕たちはどのように世界を見ているかが規定されている。おそろしいことである。ムリンパタの人々は、一瞬の状況判断で生死が決まるような環境で生き残ってきた真のアニマリストたちなのであった。「お、この鶏胸肉に赤札のシールが!」などと素早くカゴに入れなどしてアニマリストを気取っている僕は、ほんとうにいんちきである。

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