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【赤報隊に会った男】① 鈴木邦男が墓場まで持っていった秘密

ああ、鈴木さんはとうとう、あの話の真相を墓場まで持っていってしまったのか――――。
彼の訃報に接したとき、まずそう思った。そして、言いようのない落胆に打ちのめされた。
新右翼団体「一水会」の創設者・鈴木邦男が世を去ったのは今年1月。79歳だった。
想像するに、僕のような元新聞記者や元警察関係者の中には、同じような落胆を覚えた者が幾人もいたのではないだろうか。
なぜなら、彼が墓場に持っていった秘密は、かつて日本社会を震撼させた、ある未解決事件の真相を解明する糸口になったかもしれないからだ。

「私は赤報隊に会ったことがある」

好々爺然としていた晩年の鈴木邦男しか知らない人々にはなかなか想像できないかもしれないが、彼の前半生は「火炎瓶くらいは言論の延長だと思っていた」と自ら振り返るほど過激で、カリスマ性のある右翼活動家だった。
早稲田大学在学中は右派学生のリーダーとして、全共闘の左派学生らと暴力闘争を展開。
1972年(昭和47年)に「一水会」を立ち上げてからは、「反米反共」を掲げたその過激な活動で警察当局と度々衝突。身柄を拘束されたり家宅捜索を受けたりしたことも数知れない。
本人の述懐によれば、1980年代にある雑誌が昭和天皇の「不敬イラスト」を掲載した際、一水会のメンバーに命じて路上で責任者を襲撃させ、重傷を負わせたこともあったという。
しかし、そんな鈴木も1990年ごろを境に暴力やテロを明確に否定するようになった。
その主張もバリバリの右翼思想から、世の中の多様性を認めるリベラルな論調へと変化。ことに老境を迎えてからは日本社会の右傾化を深く憂い、ネット右翼らのヘイトスピーチに抗議したり、国民に特定の道徳観を押し付けるかのような自民党の改憲案に真っ向から異を唱えたりしていた。
このため、右翼陣営から「変節漢」と罵られることもあったが、怯むことなく発言を続けるその姿勢はイデオロギーの枠を越えて多くの人々から敬愛されていた。
もちろん僕もその一人だ。
論客として名を知られるようになってからも東京・東中野の古アパートで一貫して質素な生活を送り、家庭を持たず、住所も電話番号も公表し、常に体を張って言論活動を続けていた鈴木は、尊敬に値する人物だったと思っている。
ただ、その一方で、僕は長年、彼が過去に発したある言葉に対して複雑な思いを抱いてもいた。
正確に言えば、彼の言葉というより、彼が雑誌や著書で何度か披露したある体験談に対してだ。1人の新聞記者として、いつかその真偽を問いただしてみたいという思いを持っていた。
それは簡単に言うとこういう話だ。

私は赤報隊に会ったことがある――――。

この文章をここまで読んでくれた方なら、もちろん赤報隊のことはご存じだろう。
そう、1987年(昭和62年)から1990年(平成2年)にかけて連続発生した警察庁広域重要指定116号事件、いわゆる朝日新聞襲撃事件の犯行グループの名前である。
朝日新聞は「反日分子」だとする右翼的主張を掲げて、阪神支局の若手記者を散弾銃で射殺し、静岡支局に爆破装置を仕掛け、社員寮にまで銃弾を撃ち込んだ狂信的な集団。
さらには中曽根康弘や竹下登といった自民党の大物政治家に脅迫状を送り、暗殺をちらつかせて靖国神社参拝を迫った狡猾な集団。
これほどの犯行を繰り返しながら警察捜査の網をことごとくすり抜け、最後まで正体を明らかにしなかった謎の集団。
それが赤報隊だ。

目撃証言をもとに作成された朝日新聞阪神支局襲撃事件の犯人像
朝日新聞阪神支局襲撃事件を報じた新聞各紙

事実か、フィクションか

その赤報隊に会ったことがあると鈴木が週刊誌の連載コラムで「告白」したのは、事件発生から8年の月日が流れた1995年(平成7年)のことである。
これが鈴木でなかったならば、単なる不謹慎な冗談として一笑に付されていたかもしれない。
しかし、当時の彼は、新右翼のシンボルとも言うべき存在だった一水会の代表。そして何より、116号事件の発生当初から「事件に関与した可能性がある」として公安警察にマークされていた重要人物だった。
実際、この3年後に警察庁が作成した116号事件の重要捜査対象者リストには、彼の名前がはっきりと記されている。
だから、鈴木の告白は否が応でも注目を集め、物議を醸した。
例えば、彼はこの告白の直後に警察の家宅捜索を受けている。また、朝日新聞や週刊文春などのメディアは、告白内容の真偽を確認すべく彼に繰り返し取材をかけている。
しかし、鈴木は詳細を語らず、「あれは文学的な表現」「つい筆が滑った」などとはぐらかすような説明を重ねた。
実際に読めばわかるが、鈴木の連載コラムは自らの実体験として赤報隊とのやりとりを臨場感たっぷりに描いており、「筆が滑った」という説明で納得できるレベルのものではない。仮に事実でないとすれば、実録風小説といえるくらい手の込んだ物語だった。
結局、鈴木の告白は真偽不明のまま世間から忘れ去られていったが、116号事件の解明に執念を燃やす記者や刑事の間では「事件にまつわる不可解な謎」として後々まで記憶されることになる。
例えば、朝日新聞の116号事件取材班キャップを長年務めた樋田毅は、鈴木の訃報が流れて間もない今年1月31日、SNSにこんな投稿をしている。

鈴木邦男さんを悼む 鈴木邦男さんが亡くなった。最後に会ったのは、2018年に『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』を出版した後、彼が創始した一水会の勉強会の講師として招かれた時だった。高田馬場駅の前のホテルのレストランでの打ち合わせや、講...

Posted by 樋田毅 on Tuesday, January 31, 2023

この投稿の中で、樋田は「鈴木さんが赤報隊であると思ったことは一度もない。しかし、鈴木さんが赤報隊の正体について知っている可能性はある」「できることなら、赤報隊についての生前の言動や記述のうち、どの部分が真実だったのかを書き残しておいてほしかったが、今となっては叶わぬ望みである」と心中をつづっていた。

全く同感だ。
朝日新聞で定年を迎えた後もジャーナリストとして116号事件の真相を追い続けている樋田は、生前の鈴木に幾度となく取材し事実を聞き出そうと試みていた。その無念は察するに余りある。

2時間を超える問答

実は、この僕も新聞記者時代に一度だけ、鈴木邦男本人に会って、この件を詳しく尋ねたことがある。
もっとも、それは彼の連載コラムが物議を醸していた時代の話ではない。
僕が鈴木に会ったのは、116号事件の発生から30年が過ぎた2017年の春。世間では赤報隊の存在がほとんど忘れ去られていた頃だ。

鈴木さん、あなたは本当に赤報隊に会ったのですか?

都内の喫茶店の個室でこう迫る僕の目の前で、当時73歳だった鈴木は遠い記憶をたぐるように首を傾けながら訥々と話した。

あの男は赤報隊でしょう、多分。
許せないと思ったから行動したんだ、ということを言ってましたよ。
乱暴な人間はいっぱい見てきたけど、それとは違う冷静さを持っていた。
ものすごく用心深い人物でしたね……。

僕と鈴木の問答は2時間以上続いた。
彼は終始、丁寧に対応してくれたと思う。
その語り口に誠実な人柄がにじみ出ているようだった。
しかし、僕の質問が具体的な事実関係に及ぶと、とたんに彼の口は重くなり、はぐらかすような口調に変化したのもまた事実だ。

警察庁広域重要指定116号事件の発生から今年で36年。
一連の犯行がすべて公訴時効を迎えてから今年で20年。
日本社会に深い傷跡を残した赤報隊の正体は未だ解明されていない。
その糸口となる情報を持っていたかもしれない鈴木が亡くなったことで、事件の真相解明はさらに遠のいたように感じられる。
そんな時の流れに少しでも抗いたいという思いを込めて、鈴木が遺した言葉の数々を再検証し、彼と赤報隊との間に本当に接点があったのかどうかを考えてみたい。(つづく

〈補足〉警察庁広域重要指定116号事件とは

「赤報隊」を名乗る正体不明のグループが朝日新聞社、政治家、企業家などを狙って殺人・爆破未遂・脅迫・放火などの犯行を繰り返した連続テロ事件。犯人が特定されないまま公訴時効が成立し、グリコ・森永事件(警察庁広域重要指定第114号事件)などと並ぶ戦後最大級の未解決事件となった。
発端は1987年(昭和62年)1月24日。この日の夜、東京都中央区の朝日新聞東京本社の建物に銃弾が撃ち込まれ、その後、共同通信社と時事通信社に「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」の名前で「われわれは日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊である」と記した犯行声明文が届いた。
そして5月3日の夜、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局の2階編集室に覆面姿(目出し帽)の男が侵入。無言のまま、至近距離から散弾銃を発砲して当時29歳だった男性記者を射殺、当時42歳だった男性記者に重傷を負わせて逃走した。その3日後、再び共同通信社と時事通信社に「すべての朝日社員に死刑を言いわたす」と記した赤報隊の犯行声明文が届いた。

赤報隊の襲撃を受けた朝日新聞阪神支局=兵庫県西宮市

さらに9月24日には名古屋市東区の朝日新聞社員寮に覆面姿の男が侵入し、食堂に置かれていたテレビに発砲。事態を重く見た警察庁は広域重要捜査要綱に基づいて一連の犯行を116号事件として指定し、複数の県警や管区警察局が連携して捜査に当たることになった。
しかし赤報隊の犯行は止まらず、翌1988年(昭和63年)3月12日には静岡市の朝日新聞静岡支局に手製の爆破装置が仕掛けられているのが見つかった。赤報隊はこうした犯行のたびに声明文を出し、「反日朝日は五十年前にかえれ」「朝日は言論の自由をまもれというが そんなものは初めからない」といった主張を展開した。
さらに、この静岡支局爆破未遂事件と同じ時期、赤報隊は群馬県高崎市の中曽根康弘元首相の事務所と、島根県掛合町(現・雲南市)の竹下登首相(当時)の実家に脅迫状を郵送。中曽根には「貴殿は総理であったとき靖国参拝や教科書問題で日本民族を裏切った」「もし処刑リストからはずしてほしければ 竹下に圧力をかけろ」と要求。竹下には「貴殿が八月に靖国参拝をしなかったら わが隊の処刑リストに名前をのせる」と迫った。
赤報隊はその後も8月10日に東京都港区の江副浩正・リクルート元会長宅の玄関ドアに銃弾を撃ち込み、「反日朝日や毎日に広告をだす企業があれば 反日企業として処罰する」と犯行声明。1990年5月17日には名古屋市中村区の愛知韓国人会館に放火して、「韓国はいままで 日本にいやがらせを続けてきた」とする犯行声明を出した。
これほどの犯行が繰り返されたにも関わらず、警察の捜査は難航。一連の事件は2003年3月までにすべて公訴時効を迎えた。赤報隊の正体をめぐっては、犯行声明の内容から狂信的な右翼関係者とする説が有力だが、朝日新聞社の霊感商法批判に反発していた旧統一教会の関与を疑う説、銃器を使い慣れた元自衛官や暴力団関係者ではないかとする説などもある。

つづきはこちら→【赤報隊に会った男】② 第1の接触


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