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覚束ぬまま春が来る

お久しぶりです。
前回の記事を書いてから一年近くが過ぎました。

特に何をするでもなく、また春を迎えることが
嬉しいようでもあり、哀しいようでもあります。

ヨルシカのライブ「前世2023」に行ってきました。
それでまた、なんとなく自分のことを書きたくなりました。
以下、ネタバレを含みます。


ライブはいつも夢のようです。
座席につき、ライブを体感している間は、
「この瞬間を忘れないように、しっかりと見て、聴こう」
としがみつくように、五感を働かせるのですが、
いざ終わってみると、細部が曖昧になっていきます。

「貴方はいつかこんなにも美しかった
 夜のことを忘れてしまうのだろうか」
劇中でのこの言葉は、
n-bunaさんの込めた切なさと、僕自身の実感が
ぐるぐるとないまぜになって押し寄せてくるように思えます。
(このセリフは「後書き」ブログから引用しました)

むしろライブ前の、
休んだ喫茶店で食べたオムライスのケチャップが美味しかったことや、
一緒に行った妹との、前世についての会話の内容の方が
今でも思い出しやすいのです。

今回のライブ「前世2023」ではヨルシカとの距離を感じてしまいました。
前回の「前世2021」に比べてライブの時間が長く、
最後に行くまでに少し疲れを感じてしまったこと。
Masakさんのバスドラの音が大きく聞こえ、
音源との差にばかり気を取られてしまったこと等々。

本当に些細なことではあるのですが、
前に感じられたほどの一体感を得られなくて、
そのことがとても悲しかったのでした。

思えばヨルシカを聞く頻度も減って、
アルバムを通して聞くこともあまりしなくなりました。
音楽の趣味が変わってきたといえばそれまでの話ですが。


全ては、変わっていきます。
嗜好も、感情も、記憶も、命も。
どこからともなく来て、どこかへ流れていきます。
それは私にはどうすることもできず、
ただそれを見つめているばかりです。

しかしそれでも私は、その流れの中に生きています。
これまでに私を去ったものが存在しなかったのであれば、
現在の私はあり得ず、どこか別の場所にいることでしょう。

流れる水が地面をえぐり取って河川の形を変え、
運んできた土を川底に残していくように、
現在とは、過去に起こったこと全部が目の前に現れていることです。
全ては一回性の生の中で結びつき、代替品はありません。


2年ほど前、私は「生きる意味」というものがわからなくなりました。
私にとっての「意味」が欲しいけれども、
誰かからそれを与えられ、解釈されるのが本当に嫌だったのです。

今言葉にしてみるならば、
学校や親から与えられ、それまで無自覚に頼ってきた
一般的な「意味」を抜け出して、
私個人が見つけ、獲得し、定義した「意味」が欲しかったのです。

客観的に見ればただの反抗期ともいえますが、
私にとってこれは、
「前世」から「現世」に生まれ変わることくらいの
重大な人生の危機でした。

ヨルシカというアーティスト、またその作品群は、
私にそのための方法を授けてくれました。
意味の捨て方を覚え、文学が作り出す世界を味わい、
音楽と人生の切なさを知りました。

たとえ今の私がヨルシカに全身全霊で浸かっていなくとも、
彼らが持ってきてくれたものの温度を精神の奥に感じます。
私の人生を彩る以上に、価値観の基礎を作ってもらったこと。
これが私にとってのヨルシカの「消費」です。


今年も春がやってくる。そして夏も。
私が何をしていなくても、季節は流れていく。
けれども私は時々、自分のルーツを探すようにして
ヨルシカの音楽に戻ってくる気がします。


昨年の夏に川で咲いていた百日紅

何かnoteの記事を書くたびに
ヨルシカへの幻滅を言葉にしているように見えますが、
私はヨルシカのファンです。
これらはただのクソデカ感情だと、
一笑に付していただければ幸いです。

それでは、また。

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