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嘘と誠

ポール・オースターの『ブルックリン・フォリーズ』を読みました。
どのシーンも素敵でしたが、
印象的だったのは主人公のネイサンが彼の姪を励ます場面。
彼は保険会社の外交員を定年まで勤め上げる上で培った話術を持っており、
結婚生活に悩む彼女を巧みに励まし、最後には心を打ち解けさせ、
言葉だけで彼女を絶望から救い出します。

この小説は彼の語り口で進んでゆき、
読者は彼独特の視点、皮肉を多分に含んだ文体と付き合うことになります。
現実を写実的に描写することを好む人からすればそれは嫌悪されうるものです。
溢れる言葉は現実を歪め、嘘となってしまう可能性さえあります。
それでもその言葉の奔流が、彼の姪にとっては現実から救い出してくれる力を持っていたのだと思います。

この小説を貸してくれた友達と、その話をしました。
その人は「ホテル・イグシステンス」の話が好きとのことで、
決して現実にはならない幻想の世界と、その投影としての日々というものに、
小説の妙を感じていたそうです。
それはそれで一つの楽しみ方だと私も同意しました。
幻想は、現実とならないからこそ美しいものでいられるというのは、
一つの妥当性を持った主張だと思います。
人生が芸術を模倣することは往々にして、あるのでしょう。


私はフィクションが好きです。
『宝石の国』のようにそれぞれの登場人物が美しくある物語も、
『おやすみプンプン』のように厳しく醜い世界を描いた作品も好きです。
ヨルシカの楽曲で繰り返し紡がれる、「さよなら」の速さにも心を奪われます。
それらが鮮烈であればあるほど、私の現実逃避を助けてくれました。
しかし『モブサイコ』や『よふかしのうた』のように、
どこか読後に自分を肯定してくれるような作品も好きで、
感傷に浸っては、「私は安っぽい人間だなあ」と
思ってしまうことがよくありました。

作品が持つ力とはなんでしょうか。
それは単なる現実逃避と感傷のために消費されてしまう商品でしょうか。

その問いに私は「いいえ」と言いたい。
「噓から出た誠」という言葉を信じてみたい。
どんなに現実から離れたように思える作品でも、
私の人生に反射して一瞬でも光る感覚があるのなら、
そこには作者の人生が投影されていると思いたい。
そこにはたった一つでも「誠」がある、そう思います。


数年前、私は人生に絶望していたように思います。
行き詰まりと、閉塞と、無意味の生活でした。
ただ自分の人生に意味が欲しかったのです。
作品の登場人物の言葉には意味があって、それが羨ましかった。
彼らの与えられた役割と意味に憧れました。
そして私のなんでもない人生に失望しました。

今思えば、過去の私は自分の存在を持て余していました。
「私がこの世界に生きている」という事実の重みに耐えかねていました。
自分の選択で人生が決まってしまうということが恐ろしくありました。
だから現実逃避をして、それを考えないようにしました。
ここではないどこかへ行こうと、もがきました。
けれども結局は自分という問題に行き着いてしまい、
そのことが非常に苦しかったように思います。

しかし、あるいはそれでも、
私は生きています。
私は生きています。
日々は選択の連続で、
不本意ながら私は歩かなければなりません。
納得のいかないことも多々あります。
けれども自分で決めたことには後悔できません。
それを受け入れて、自分の手足でもって、
このドラマを死ぬまで続けるしかありません。
そのことにようやく気付きました。

私の身体は宝石のように美しくもなく、
私には師匠と呼べる不器用な詐欺師の先生もいません。
けれども、
私の手のひらには真紅の血が流れ、
私に人生を説いてくれた両親や恩師がいました。
私には私の人生があります。


先日、自分の生業を決めました。
この道で、食べていこうという決心がようやくできました。
これまでに出逢った人々と、作品が
私をこの選択に導いてくれたように思います。


全てが嘘だと思えるこの現実こそ、たった一つの真実なのだと
数年前の自分へ、伝えてみたくこの記事を書きました。
そしてこの人生の軌跡を誰かに見て欲しくて、
つまらない承認欲求をドラマチックに仕立てて書きました。
もしこれを読んでくれた人がいたのなら、
それだけで私はとても嬉しいです。

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