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水辺のビッカと月の庭 十八 キルカの眠り Ⅳ

「どうだ痺れは無くなっただろう」
摩擦をうけていた手も足も痺れはかすかに残っている。
ヒロムはうなずきながら言う。
「でもからだ全体がだるい」
「これから家に帰ってもらう」
ヒロムの表情は明るくなる。
キルカは動かしていた目玉をピタリと止める。
「それが当然だと思われると困る」
ピシャリと言う。ヒロムに不安の表情が浮かぶ。
「キルカは落ちた子に二つの権利を持っている。聞きたいか?」
返事にためらうヒロムを無視してキルカは続ける。
「一つ目は、落ちた子を家に帰す権利だ。そうすればキルカを続けられる」
ヒロムの頬にちいさな笑みが浮かぶ。キルカはヒロムの笑みを見ながら平然と言う。
「二つ目は食われる権利だ」
「どういうことなの、それ!」
表情がゆがみヒロムは思わず声を上げる。
「落ちた子がキルカを喰うのだ」
「落ちた子って」
ヒロムは自分を指差す。
「ぼくは、獣じゃないよ」
「痺れの毒が全身にまわってしまえばめでたくキルカに変わってしまう」
「全然めでたくない」
「この小屋に二人のキルカは存在できない」
「キルカはまだキルカでいたいのでしょ」
キルカは左右の目玉を同時に上下させる。
「キルカたちはみんな喰われて代替わりをする。いつ終わるかもしれないキルカとお別れだ」
「あの、落ちた子に権利はないの?」
「無い。義務だけだ」
あっさり言いきるキルカにヒロムは言う。
「ぼくが帰れば、キルカを続けるんだね」
キルカは左右の目玉をそろえて上下させる。ヒロムはまた尋ねる。
「からだの色が変わったら、何かいいことがあるの?」
キルカはすぐに答えない。目玉を同じ方向に回転させながら言う。
「特別な力を得ると言われている」
ヒロムの表情がふっと明るくなる。
「ただしどんな力なのか分からない」
「分からないの?」
と言いながらヒロムは首をかしげてしまう。
「分からないことのためでもずっとキルカするんだ」
「おかしいか」
ヒロムはふと思いついたことを口に出す。
「キルカになる前は何だったの」
「ヒロムと同じようだった」
「ブランコから落ちたの?」
「いや、淵の川面を見ていて落ちてしまった。ずいぶんと昔のことだ」
ヒロムは怪訝な表情で聴いている。
「フチとは川の流れの深い深い所だ。濃い緑だったり青黒かったりと、ときに色を変える」
ヒロムは黙って聞いている。キルカは続ける。
「鯉だ。ある日偶然大きな魚影を碧い淵で見てしまった。それ以来毎日その淵に通ったよ」
「そこにカエルやイモリは居る?」
「餌になりたいやつはいないさ」
「大きな鯉が川の奥底からゆったりと浮かび上がってくる姿は見飽きることなかった」
「なんだか怖い気がする」
「鯉の背に乗ると水の世界で暮らせる」
「本当に乗ったの?」
キルカはにやっと笑って尋ねる。
「ヒロムはブランコを揺らしているとき何を見た?」
ヒロムは少し思いだす。
「あのブランコから落ちる前は楽しかった。夢中だった」
「わたしも同じようなものだった。熱狂惑乱そして静謐」
ヒロムはきょとんとして聞いている。
「さて、この話はこれまでだ。もう足も動くだろう」
「じゃ帰してもらえるの」
キルカはうなずく。
「外でムンカとビッカが待っているはずなんだ」
キルカは頭を横に振る。
「待ってくれているはず。家まで送ってくれる」
「そうじゃない。窓が閉じたときからこの小屋は移動してる。」
キルカはそう言いながら小屋の扉を開けようとする。
「さあ家まで帰るんだ。もう歩けるだろう」
ヒロムは椅子から立ち上がった。しかし、ドアにはむかわない。また座りこむ。
「あんな家には帰れない」
首を横に振りながら言う。
「なに! あの家ってどういうことだ」
キルカは訳がわからず問いかえす。
「帰る家はなかったんだ」
「ということは、もしかして、もう帰ってみたのか」
ヒロムは小さくうなずいた。キルカは短い前足で頭を抱える。
「ありえないことだ」
「でも、本当だよ。自分の家だと思って入ったら違ってた」
「月の庭のブランコから落ちた子は家には‥‥(帰れないはずだ)」
そこまで言ってキルカは言い淀む。腕組みをしてヒロムを見る。キルカの庭に落ちてくるはずが、窓から入ることになった。
ヒロムは説明する。
「ぼくは水の中に落ちてたみたい。ムンカが助けてくれた」
「ムンカとはなんだ」
「湧き水のイモリだよ」
「水のものか」
「ムンカが教えてくれた。ぼくは親水公園の沼に浮かんでたって」
「それから?」
「ビッカもやって来て、ドールハウスの屋上で寝そべってお月様を見ていた」
「そうか。ながらく本物の月をみてないな。どんな色だった。形は?」
キルカは懐かしそうに言う。
「赤っぽい満月だよ」
「その色は珍しい。月は黒月か白月かのどちらかだ」
「見ていると眠くなって、そのうちに寝入ってしまった」
「寝入った! 月の光を浴びながら寝てしまったのか」
「それってなにかいけないの」
キルカはそれには答えない。
「目を覚ましてどうなった」
「ぼくが最初に目が覚めて、そこはドールハウスの屋上でなくて、いつもブランコに乗っていた公園の前だった」
キルカは黙って聞いている。
「おかしいよね」 
キルカは両方の目玉を同時に上下させる。のっしのっしと部屋を回る。
「やっぱりそうなんだ。住んでた町はおかしな事になっていた」
 キルカは両方の目玉を時計回りに回転させ、ひたすら何かを考えている。
「あの家はぼくの家じゃないよね」
 ヒロムはなおも尋ねてみる。キルカの困惑ぶりから悪い予感がする。
キルカは無言で部屋を行ったり来たりを繰り返すばかり。耳にする音はキルカの足音だけだ。
足を止めるとキルカは壁の前に立つ。じっと壁を見る。横に二、三歩動いて止まる。また壁をじっと見る。繰り返しているうちに部屋を一周してしまう。
ヒロムは何かしゃべらないではいられなかった。町の家々がいびつに変化したことや、自分の家が段ボールのような紙に変わってしまったこと。得体のしれないカニにまで出てきて何やら切り刻んでいたこと。
しかし、キルカは聞いているのかいないのか表情からは分からない。三周目にはいろうかとする。ぴたりと止まるとヒロムの方に向く。目玉の回転がゆっくりと止まる。
「ヒロム」
 おもむろにキルカは口を開く。
「見事な迷子っぷりだ」
「え!」
思わず声がでる。長い間思案した後の言葉だとは思えない。
「落ちた場所に行ってみることだ。始まりはそこだ」
期待していたのにキルカの答えにヒロムはガッカリする。
「あの庭の屋敷に行くの? 行ってなにをするの? まさかまたあのブランコに乗るの?」
「行かなければまたここに帰ってくることになるはずだ」
ヒロムの表情はさらに暗くなる。あの屋敷の庭にあるのは手製のブランコだけだ。そこに行けとキルカは言う。からだの震えが大きくなる。
「どうした。怖いのか」
ヒロムは正直にうなずく。落ちた衝撃はからだが覚えている。
「めったにしないことをしたんだ。わざわざ月の庭に入りこんでブランコに乗るなんて」
キルカは呆れた口調で言う。
ヒロムはうなだれる。

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